巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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    第百三十三回 輪陀女王に魅了される寺森医師

 壁の様に寺森と芽蘭(ゲラン)男爵とを囲んだ美人軍の一方を開かせて、その所から歩んで来た輪陀女王は、部下を慰撫(いた)わる大将の有様で、軽く一同に会釈した。寺森は我が運も男爵の命も全く此の女王の手の中に在る事を知っているので、此の世を辞する最後の一刻は来たと思ったが、今更驚きも恐れもせず、寧ろ幾月か心の裏に描いて居た、黒天女の実物を目の当たりに見る時が来たのを喜ぶばかりであった。

 此れさえ見れば、死も少しも嫌がるのに足り無いと、心を固めて落ち着いて居るのは、又一種の勇気と云うものかも知れない。
 輪陀女王は寺森には気も留めず、ひたすら芽蘭男爵の許を指して歩んで来た。その様は宛(あたか)も我が王宮の虜を、女王自ら処分するのに、何の怪しむ所が有るものかと云う様に、極めて平淡にして又極めて自然であったが、その自然なところに何と無く優美にして気高い所がある。天女が空を歩むのもこの様な姿では無いかと思われる。

 寺森が此の様に見る間に、女王は無言のまま芽蘭男爵の手を取ったが、芽蘭男爵はまさにここが、今し方寺森に約束した命請いの時であると思った様に、恭々(うやうや)しく拝礼して、非常に熱心に女王に向かって説き初めた。

 寺森はその言葉の半句をも理解する事は出来なかった。又理解し度いとも思わない。唯だ女王の顔の一筋をも見落とさないようにしようと、眼を懲らして見詰めるばかりであった。
 後年になって、或人が寺森の手帳を得て開いて見ると、此の時の己の感じを下の様に記して有った。
 
 天女とは唯だ絵に見るだけであるが、絵は吾々と同じく地に立ち、土を踏む俗人から出た者なので、如何に優美であっても俗を離れない。通例の美人を少し異様に写したのに止まる。真の天女とは輪陀女王の事である。輪陀の輪陀たる所は、土を踏む俗人の筆では、字にも絵にも尽くす事が出来る様な者では無い。

 先ず目を閉じて「天女」と云う語を取って瞑想せよ。瞑想を久しくすれば、天女とはこの様な姿ででもあろうかと、思い浮かべられる。凡そその想像は茫乎として目の先に浮かぶに違いない。その浮かぶ所は人に由って同じでは無いものの、各々が浮かべることが出来た所から、最も俗に遠い部分をのみ取集めて、実の形とすれば、或いは輪陀に近い者を得る事が出来るかも知れない。余は此の様に云うより外に、人に黒天女の姿を想像させる事が出来る語を知らない。

 身の丈けは五尺三、四寸《159cmから162cm》、手足の釣り合いはーーー否否、この様に云うと、是れは俗人の体格を検査する語で、既に輪陀女王を俗了(ぞくりょう)《ありきたりのもの》している。輪陀の身には数字はない。釣り合いも無い。背丈は高いと見れば高く、低いと見ば低い。

 何人も之を高過ぎると云う事は出来ない。最も品格のある背丈で、此の上に伸ばすことも縮めることも出来ない。真に圓満の美を備えたものだ。否備えたのでは無い。昔し哲学者のプラトンが云った様に、若し天上に圓満の美と言う者が有るとすれば、その美が即ち其所に生まれ出たのである。しかも美の中に威厳をも兼ね備えている。

 色は手入れした古銅に似ている。この様な顔色は美を損すると云う勿れ。美の俗な者は色の為に損(そこ)なわれ、圓満の美は色の為には動かされない。化粧した醜婦よりも、素顔の美人が美しいのを見て知れ。輪陀は造化《造物主》が刻んだ銅像である。銅像にして霊があり良く活動する者である。

 その美と云うのは、形に在るよりも変化に在る。発顯(はつげん)《現れ出ること》に在る。手を動かす美である。足を挙げる美である。姿勢の変ずる所に美は自ずから溢れるのだ。物を云えば人は直ちに顔に発顯し、眼に活動して人の肺臓に入るかと思われる。発顯は総て温和である。愛らしいのだ。

 時に怒りの色を含めば鋭くなり、闇が天を破る電光の凄まじさに似た所もある。人を悩殺しつつ又人を畏縮させる。
 余は生涯、黒天女輪陀女王の半分さえも、人を動かす力がある者を見たことが無い。只管(ひたす)らに嘆服(たんぷく)《感嘆して心から従うこと》して、余は暫し我が状況の危急(ききゅう)《危険が目の前に迫ること》なるをも忘れて居た。

 この様に記す程なので、寺森は全く我を忘れて感服した。女王の眼は、男爵との話の間に、二回ほど寺森の方を向いたが、その度に寺森の茫然自失した様子を見て取った。女の身として男子からこれ程まで嘆服せらる女王は、尊しと雖も心に幾らかの喜びを催したに違いない。況(ま)して寺森から天女と見做さているが、結局は浅果かな蛮国の婦人である。

 怒るも易く解けるも又易いことは、文明国人の思いも及ばない所がある。男爵との話は次第に和らいで来て、終にはその命乞(いのちご)いの意を、聞き届けるに至たったと見える。女王自ら此方に振り向き、手を以て何やら部下に指図すると、取り囲んで居た美人軍の一方は、出口の様に寺森の為に開いた。

 女王が非常に静かにその所を指さすのは、寺森にここから立ち去れとの意に違いない。この様な間にも部下に対し、又寺森に対し、一語をも発しないのは、非常に鷹揚な振る舞いにして、女王の威厳も此の辺に在りと云うべきか。

 寺森は更に女王の顔を見て、その心を推察すると、敵の使者一人を返しても、軍(いくさ)の上に何の影響が有るものか。今返すのは後に戦って殺すか、さもなければ捕虜にする為である。しばらくの間、汝に汝の命を貸し與えて置くと云うのに在るに違いない。

 此の推量が果たして当たるや否や。寺森は一語をも発する事が出来なかった。唯だ女王の姿を更に深く我が記憶に印して置こうと、又もその顔を眺め、更に四方に並ぶ美人軍の姿を見つつ静かに退いて、その出口の様に開いた所を出て去った。



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