巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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      第百三十七回 崩れた軍神石

 平洲も、茂林も、未だ芽蘭男爵の顔を知らないとは云え、たった今、美人軍の中から現われ出た顔色の青白い人が、芽蘭男爵である事は疑う迄も無い。男爵でなければ彼等の陣中にヨーロッパ人が在る筈は無く、又その病み耄(ほう)けた容貌と破れた服装とは、先刻寺森に聞いた所と少しも異ならないからだ。

 男爵は何の為に現われ出たのだろうか。美人軍が戦いに酔い、夢中と為った機を伺って、妻の許に逃げて行こうと、先刻寺森医師と語らったその約束を実行しようとする者である。未だ必ずしも美人軍が戦いに酔ったと云うまでには至って居ないが、今逃げて来なければ、殆ど逃げて来る時は無いに違いない。

 実に美人軍は男子軍が到底此方に打ち勝つ事が出来ないのを見て、大挙して唯だ一呼吸(ひといき)に此方を鏖(皆)殺しにしようと、その足並を揃え、輪陀女王からの唯だ一言の号令を待ちつつ有る時だからだ。男爵は必ず此の機を察し、ここを最後として出て来た者に違いない。

 此方に在っても実に最後の場合である。命と頼む左右翼の精兵も、先程からの激戦に力が全く尽き、男爵の方も多くは残っていない。
 男子軍をこそ打ち退ける事が出来たが、美人軍と接戦しては唯だ一潰しに潰されることは、鏡に掛けて見るよりも明らかである。それで一同は、心の中にここを死すべき所と見、五千の美人軍が一号令の元に動こうとする様を此の世の見納めとして眺めて居た。

 男爵が現れ出て、美人軍の一部を騒がせたことは、此方に取っては僅かに一分か二分の間、此の世の暇乞いを延ばした様な者である。
 男爵の妻芽蘭男爵夫人のほうも、先程から左翼隊の後方である樹蔭(こかげ)に避け、二人の通訳及び帆浦女と共に戦いの様を眺めて居たが、全軍鏖殺(皆殺し)せられる時の最早や遠くは無い事を知り、死を決して寧ろ益々落ち着いた様子で、平洲の傍に出て来て、

 「皆様に後れない為め私もここへ参りました。」
と非常に頼み少なく言った。此の時は茂林も己が号令して居た門鳩(モンパト)兵が、戦いに酔って号令を守らず、敵の一部を追って歯と歯との接戦を為しつつ有るのを止める事が出来ず、独り来て此の所に在った。

 右翼の指令者老兵名澤も、分かれ分かれに後れて先立って死ぬのを恐れ、前も後も無く、一団になって死のうと期し、部下共々に知らず知らず此の所に寄って来た。それでここに至って中軍も無く、左右翼の別も無く、宛も寒さに我慢が出来ない人達が、自ずと一ケ所に纏(まと)まる様に、首を突き合わせて集まったのは、共々に死のうと云う、同じ思いに引き寄せられたものだ。

 先ほどから、自ずから軍医と為り、負傷兵の手当を引き受けて居た寺森医師も又ここに来て、
 「アア魔雲坐王の治療をして、漸く彼の命だけは取り留めたが、この様に一同が死ぬ時と為れば、治療した丈け余計で有った。医者の手で生き返って更に敵の手で殺されるのだ。僕も彼所に居て、一分間でも諸君より生き残り、そうして捕虜などにされるのは厭だからここへ来た。最う負傷を治療する必要も無く成った」
と云う。何とその言の憐れなことか。

 この様にして居る間に、現われ出た芽蘭男爵は、片手に斧の様な物を持ち、群れ掛って引き留めようとする美人軍を追い払いながら、背後(うしろ)向きに此方へ近寄って来ようとする。美人軍の為に取っては、是れこそ女王陛下の大事な捕虜なので、傷付けては成らないとの心から、腫物に触る様な用心で、無傷の儘(まま)に捕らえようと勤めるので、殆ど男爵を如何ともする事が出来ない。

 男爵は二十間《36m》ほど来て初めて此方へ向いたが、向くと同時に此方に居る芽蘭夫人と期せずして顔を見合わせた。数年前に死んだと思って居た夫と妻、この様な異様な場合に異様な対面を遂げた。双方如何なる想いがしているのだろう。夫人も男爵も、分かれ分かれに共に蹌跟(よろめ)く許りであったが、やがて男爵は声を励まして一同に向かい、

 「射撃なさい、射撃、射撃」
と叫んだ。その心は今射撃しなければ、一たび女王の口から
 「進め」
の号令を発するに逢っては、飛鳥の様に敏捷な美人軍に向かい、到底射撃の効果は無いと言うのに在るに違いない。

 茂林はそうとは知ったが、
「イヤ、今射撃しては貴方をまで射撃します。」
と答えるのに、
 「ナニ私を、エエ私を構っては居られません。何うか妻だけでもお助けを。」
と云う。

 一語真に是れ夫婦の至情を尽くす者と云うべし。茂林はその言葉に従い、殆ど涙に潤む声で、
 「男爵、さようなら」
と一声高く暇を告げ、直ちに左右翼を顧みて、
 「打て」
と発する号令の下に、部下は一斉に射撃した。

 やがて火薬の煙が散ずるのを待ち、男爵の立って居た所を見ると、男爵の姿は無い。さては弾に当たり死んだのか、否、輪陀女王自ら進んで来て、飛び掛かって男爵を組み伏せたのだ。女王の鎧の刺々に突き刺されて、男爵の身体は血に塗れたまま、女王の手の下に倒れ、まだ逃れようと藻掻きつつ有った。

 老兵名澤、通訳亜利等は幾人かの兵士と共に、男爵を女王の手から奪い取ろうと、号令をも待たずに馳せ寄ると、此の時女王は後に居る五千の美人軍に向かい初めて、
 「進め」
の号令を発した。

 号令と同時に美人軍は凄まじい叫び声を発し、此方に向かって一斉に躍り掛かろうとすると、不思議も不思議、何の力か、何者の為す業か、背後に高く聳えた彼の山の様に巨大な軍神石は、轟然一声天地に震え、響きを発し、忽(たちま)ち砕け散って、細かいのは霰(あられ)の様に空に飛び、大きなものは、その下に集って居た男子軍と美人軍の頭上へ、天が落ちる様に落ちて来て、彼等を形も残らないまでに圧潰(おしつぶ)した。

 今の世に霊怪(ミラクルス)《奇跡》と称すべき者があれば、是れは確かに霊怪(れいかい)《奇跡》である。
 造化(ぞうか)《創造主》自ら手を下して、此の兇猛な美人軍を押潰したのだ。美人軍の八分通りは、唯だ大石の下から流れ出る血潮で、惨死の消息を洩らすばかり。此方の一同も、実に何の為にこの様な事と為ったのかを知らない。唯だ呆気に取られるばかり。



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