巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou138

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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     第百三十八回 捕まった輪陀女王

 軍神石が破裂して、男子軍と美人軍との頭上に落ち、彼等を微塵に圧潰(おしつぶ)した此の不思議な騒ぎの中に、その不思議な出来事は何事なのかを怪しみ問う暇さえ無いのは、老兵名澤と通訳亜利と芽蘭(ゲラン)夫人との三人である。

 三人は眼前に芽蘭男爵が輪陀女王の刺のある鎧に刺されたのを見、血に塗れて女王の足下に倒れたのを見、更に女王が男爵の僅かに残っている息の根を止めようと、再び男爵を組み伏せて鎧の刺を振り立てるのを見、唯だ男爵を助けようとの一心で、その外の事は意にも介さず、軍神石が破裂する音をも聞き、天地に轟く凄まじい響きをも聞き、石に打たれた美人軍の叫びと、打ち残されて逃げ惑う彼等の騒ぎとをも聞いたけれど、単に是等を軍の騒ぎと聞き流して男爵の傍らに馳せ附けた。

 馳せ附けたけれど、女王の鎧は宛も栗の毬(いが)の様に、針を以て固めてあるので、如何ともする方法が無く、唯だ無惜無惜(むざむざ)女王が男爵を刺し殺す様を傍観するだけであったが、男爵は之が最後の叫びなのか女王の鎧の下から、
 「助けて呉れ」
との一言を発した。

 此の声に励まされて、名澤は何の躊躇も無く、持って居る銃を振り上げて、女王の横鬢(よこびん)から殴(なぐ)り叩くと、頭を固めて居た鉢巻きの様な者が搉(くだけ)飛び散り、之と共に女王も男爵の身を離れて背後へ仰向けに倒れたが、流石に多年美人軍の役に服して鍛え上げた身体だけに、酷くは傷附きもせず、直ちに起き上がろうとするのを、名澤が銃で抑え附けると、亜利も直ぐ様その銃の一端に手を掛け、左右から重く推し附けて起きさせなかった。

 亜利に随って得た通訳阿馬(オマー)は気を利かせて、早速、荷物を縛る縄を持って来たので、之で三人力を合わせ、手とも云わず足とも云わず、女王の身体をぎゅうぎゅうと縛り、少し離れた所に在る立ち木の根に結び附けた。

 芽蘭夫人は輪陀女王が離れたと見るや、直ちに夫男爵を抱き起こすと、男爵はまだ虫の息ほど微かな呼吸があり、夫人が涙ながらの言葉で、
 「貴方、妻です。妻が介抱致します。お気を確かに持って下さい。」
と励ます言葉が通じてか、僅かに目を開いたけれど、一語をも発する事は出来なかった。

 夫人は抱き上げたまま、その顔を倩々(つくづく)と脉(なが)めると、数年前別れた時の面影とは変わり果て、痛々しいほど窶(やつ)れて居た。  
 その頃は年三十を越えたとは云え、まだ美少年とも云うべき程で、薄紅の頬艶々しく、世界に二人と無い人とまで思われて居たのに、今は病耄(やみほう)けた顔に生気も無く、蛮烟瘴霧(ばんえんしょうむ)《毒気を含んだ雨と煙》と戦った幾年月の艱難辛苦は顔の筋々に刻まれて深い。

 学術の為に身を犠牲とし、他人の企てる事が出来ない調査を為し遂げようと、以前から折に触れ、時に触れて、言い出して居たとは云え、数年にして老人と見えるに至るまで、青春を擲(投げ打)って、この様に学術には尽くさなければならないのかと、夫人は殆ど偉丈夫を夫とした身の果報が恨めしく、涙が自ずから迫って来て、ヨヨと夫の身に泣き伏せたが、

 留める人も慰めて呉れる人も無かったので、烈女と云われた雄々しい身も、果ては愚に返り又もその首を上げて、夫の顔を見ては泣き、泣いては又その顔を見ると、病み耄(ほう)けた顔の何所にか、何時とも無く昔しの懐かしい面影が現らわれて来て、見張る力さえも無いその眼も、昔し愛を湛(たた)えて我が顔を眺めた眼の様に見え、色褪めた唇も昔し妻よと我が身を呼び、優しい声を発したその同じ唇である。

 思えば思うに従って、夫人は外面の事を次第に打ち忘れ、自分が累々たる敵見方の死骸の散布(ちりし)ける間に在る事も、恐ろしい軍の事も、心から遠ざかって、我が身と夫の外には人も無く物も無く、夢幻の境に辿り入り、我が身は自ら我が身を知らず、憂きも危うきも総て消え、只残るのは愛の心だけ、宛も眠った人が、夢中に語る様に又余念も無い声で、夫の顔に口を寄せ、

 「もう私と共に帰りましょう。何で貴方は私を後に残して国を出ました。何故今まで帰りません。国へ帰れば昔の通り若く成ります。病気も私が直して上げます。学問などと云う事は捨てて仕舞い、二人で何時までも世の中が楽しい様に私が教えて上げます。」
などと世界浮世を離れて細語くのは、その身自ら何を細語(ささや)きつつ有るのかも知らないのに違いない。

 この様な有様なので、猶更らその身は今方(まさ)に如何なる危険が近づきつつ有るのかを知る筈は無い。夫人の背後に数間を離れた草の中には、少し以前に捕らわれた輪陀女王が、人々が騒ぎに夢中と為っている暇を伺い、その縄の一端を切解(きりほど)く事が出来て、夫人と男爵との睦まじい様を脉(眺)め見、

 復讐の時が来たと思った様に、妬たましさや、悔しさからか、その眼を光らせて左右の草に音もしないほど徐々(そろそろ)と夫人の背の方に躄(にじ)り寄りつつ有り、僅かに縄の一端を解いた丈で、未だその身の自由を得て居ないので、男爵を刺した鎧の刺が、夫人の身に届くまで進み寄るのは、今少しの間である。



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