巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou147

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.9.14

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        第百四十七回 飼い慣らされた毒蛇

 此の邊の様な熱帯の地に、毒蛇の多い事は今初めて知る事では無い。しかしながら現在一行中の一人である與助が、毒蛇の蜷局(とぐろ)に巻込まれたと有っては、驚かない訳にはいかない。彼れは生きて居るのか、死んで居るのか。唯一ケ所蜷局(とぐろ)の外に出ているその顔は、生きて居る人間の色では無く、眼もその球が飛び出るかと思われる程に開いて居る。

 誰でも此の様子に驚かない者が在るだろうか。老兵名澤の様な勇士でさえも、
 「大変だ。」
と云うばかりで、どうして好いか分からないで居る。独り茂林だけは、まだ此の様を知らず、蛇の方に背を向けたまま、その喇叭(ラッパ)を吹き続けているので、通訳亜利は遽(あわただ)しく茂林の手を捕え、

 「可(い)けません、喇叭(ラッパ)を吹いてはいけません。毒蛇が喇叭の声を聞く度に段々此方へ寄って来ます。」
と云う。毒蛇と聞いて茂林は、初めて吹く事を止め、振り向いて背後を見た。

 彼は與助をパリに居る頃から、我が雇い人として長く召し使って居る丈に、その身の危うい事をも打ち忘れ、蜷局(とぐろ)の方を目指して馳せて行くと、怪しい事に、蜷局(とぐろ)は喇叭の音を止めると共に、ソロソロと解け始め、茂林が近づいた頃は、数多の大蛇は與助の身体を捨て、静かに崖の方を指して踠(のた)くり去ろうとしている。

 さては毒蛇までも、茂林の勇気に恐れたのか、それとも何か理由があるのだろうか。
 その様な仔細を尋づねるより、與助の介抱が肝腎なので、皆が彼れの傍に集まると、彼れは全く死骸の様に倒れたままであったが、まだ命を失って居無い事は、恐ろしさに張り開いたその眼が、人を見て動くことで察せられた。

 茂林は狂人の様に與助を抱き起こして、
 「オオまだ命だけは有る様だが、気絶でもして居るのか、誰か早く水をソレ早く」
と悶(もど)かしがっていると、通訳亜利は水を持って何故か笑いながら近づいて来て、

 「アア此の様な可笑(おかし)い事は無い。」
と云いながら差し出した。茂林は受け取りながら、聞き咎めて、
 「人が生死の境迄行って居るのに、何が可笑(おかし)い。」
と叱ると、亜利は殆ど腹を抱え、

 「イエ大丈夫です、與助さんが自分の心で、恐れ死にさえしなければ、決して死ぬ程の害は受けて居ないのです。私は先達て此の国へ使いに来たから知って居ますが、此の国は蛇を神の様に崇(あが)めて祭り、蛇を使う人間を生き神と立てて居るのです。」

 成る程先に芽蘭男爵の手紙にも、此の国に蛇使いの人が有る事、及び蛇祭りの事なども記して有った。しかしながら茂林は、男爵の手紙などを思い出す暇も無く、更に怒って、

 「それが何で可笑しいのだ。一行中の者が此の様な危険に落ち入った(陥)ったのを笑いなどすると、此の後は承知しないぞ。」
と云う。

 亜利は此の見脈(けんまく)に恐れ、そのまま後を云わずして笑ひを停(とど)め、口をも噤(つぐ)んだが、やがて茂林も與助の身体に何の異常も無く、唯だ当人が恐ろしさの為め、動く事が出来ないで居るのに止まる事を見て、少し疑う所があり、再び亜利に向かい、

 「何だその後を話せ。」
と云うと亜利は静かに、
 「ナアニ今の蛇は向こうの崖へ、蛇使いが穴倉の様な所を作り、その中に飼って有るのです。毒蛇ですけれど、その牙を抜いて有るから何も毒は無く、そうして日頃蜷局(とぐろ)を巻く様に芸を仕込んで有るのです。

 それだから蛇等は、與助さんが入って来たのを見、蜷局(とぐろ)さえ巻けば何か餌食(えさ)を與えられると思い、與助さんを囲んで巻いたのです。蛇使いが毎(いつ)も自分自ら蜷局(とぐろ)の中へ巻き込まれて、その身が蜷局(とぐろ)の動くと共にグルグル回るのを、輪陀女王などに見せて、愈々(いよいよ)此の人は生き神様に違い無いと思わせるのです。

 今の蛇は蜷局(とぐろ)を巻き、食物に有り付くのだと喜んで居る所へ、貴方の喇叭(ラッパ)が聞こえたから、愈々蛇祭りが始まった事と思い、與助さんをグルグル廻して得意の芸を遣(や)らかし乍ら出て来たのです。蛇は余程褒美や御供物(おそないもの)に有り付く積りで有ったのでしょう。」
と云う。

 此の説き明かしを聞いては、流石の茂林も笑わないわけにはいかず、宛も気抜けのした様に與助の身体を投げ出し、
 「何だ、此の臆病者め、塁の背後に隠れて居たけれど、更に戦争が恐ろしくなって、崖に深い穴の有るのを見、此処ならばと更に蛇飼いの穴へ隠れたのか。本当に一同を驚かした。」

と呟くと、是等の言葉は一々に與助の耳に入り、その恐ろしさを掻き消したと見え、彼れは初めて口を開き、
 「道理で蜷局(とぐろ)が少し弛(ゆる)かった。私もその様な事では無いかと思ったから、怖気を見せて蛇に軽蔑されては成らないと、一生懸命に睨め付けて居ました。」
と云う。

 茂林は、
 「馬鹿馬鹿しい。」
との一語を残し、塵打ち払いながら芽蘭(ゲラン)男爵および夫人等の幕営の方に立ち去ったので、亜利は與助を助け起こしながら、
 「與助さんお前は残念な事をしたよ。アノ蛇が蛇使いの飼い物でさえ無ければ、お前は天下第一の大冒険として、全世界へ名を揚げる所だったのに。」
と譃弄(からか)うと與助は真面目に、

 「だがネ、亜利さん、蛇使いの飼い慣らした蛇だったなどと、余り言い触らして下さるな。」
と口止めするのも可笑しかった。

 この様な間に日も既に暮れてしまったが、乱暴な門鳩(モンパト)兵が、勝に乗じて近村に放った火は、天の隅(すみ)を包んで赤かった。



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