巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou31

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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       第三十一回 傷心に飛び出した帆浦女

 抑(そもそ)も一行が行路とするスアキンから漠々(バーバー)村に到る間は、アフリカ旅行の最も無事安楽な所で、驚くべき大沙漠などは無く、山と山との間に在る広い谷とも称すべき沙地(すなち)にして、外に迷い去る岐路(えだみち)も無い。

 中程に至るまで一歩一歩徐々(そろそろ)と上(のぼ)る道で、唯だ少し困難なのは、途中に飲み水が少ない一事である。人類は魚では無いが、水の無い所には住むことは出来ない。飲み水が無ければ従って人家も無いけれど、或いは十哩(マイル)《約18Km》、或いは二十哩《約37km》くらい行くと水湧き草木の生ずる緑島(オアシス)がある(緑島の事は既出)。

 しかしながら緑島(りょくとう)《オアシス》とは、唯だ大海の様な広く限り無い沙原に在って称(となえ)ている呼び名で、この辺りは海の様な沙原(すなはら)では無くて谷間の地なので、緑島(オアシス)とは言い難く、単に「井」(ウエル)と呼ぶのだそうだ。

 井(ウエル)の有る所は即ち人家の在る所であって、一行が泊った所はケグラブの井(ウエル)と云う。漠々(バーバー)村に到るまで、村の名の附く所は一つも無く、皆何々の井(ウエル)と称せられる小部落である。

 唯だ漠々(バーバー)村の少し手前に達すると、左右の山は全く尽き、初めて真の砂原となり、旅行家は大いに悩まされるが、それも長い間では無い。程なくナイルの岸に達し、漠々(バーバー)村に入り込むのだ。しかしながら其の村に至るまでの事は唯だ概略(あらま)しを記すに止める。

 それはそうとケグラブの井(ウエル)に宿泊した翌朝、帆浦女の姿が見えなかったので、芽蘭(ゲラン)夫人は非常に驚き心配した。彼女が寝て居た天幕(テント)の番人に聞いたが、昨夜来何の変わった事も無かったと云うばかり。

 夫人は未だ真の蛮地にも入り込んで居ないのに、既に従者與助を失って、非常な心配した折であるのに、又も帆浦女を失っては、益々困った事だと云い、如何(どう)したら好いだろうかと平洲、茂林等に相談したが、二人も本当に如何(どう)しようも無かった。

 長く踏留まって調査するにも、土地が狭くて、一同の食事に充てる物さえも得る方法が無く、用意した糧食が尽きると共に、一同飢え死ぬのみなれば、兎に角食物を求める事が出来る漠々村まで行き、その上の相談にしようと云う事に決し、一同ここを立ち去ったが、平洲と茂林は少し気が附いた事も有ったので、言い合せて馬に鞭を当て、一同より先に一散に駆け出した。

 多分、帆浦女は今朝早くに起き出して、誰も知らない間に唯一人、出発したのに違いないと思っての事に違いない。
 それで両人は息をも附かずに一時間走ったけれど、帆浦女の姿は見えない。取り分け此の辺は、山と山の間が益々狭くなり、土や石が多くて、砂が少ないので、足跡を見付ける方法が無い。

 更に又一時間走らせたが、まだ姿を見い出だす事が出来なかった。如何に彼女が健脚だと言って、騎馬で二時間追い掛けて、まだ見当たらない筈は無く、二人とも漸く不安の思いを増したけれど、今と為っては更に追い掛けて見るしか方法が無いので、又も二十分ほど馬を走らせると、初めて二人の目に留まったのは、遥か彼方の谷間に、枯れ木の様に痩せた人が、右にも左にも傾かず、唯前へ唯前へと間断なく進み行く姿である。

 二人は馬と共に喘(あえ)ぎながら、
 「アレだアレだ。」
と云い更に間近く追って行って、声高く、
 「帆浦女よ。帆浦女よ。」
と呼んでだが、
 その声が耳に入らない様に進んで止まらない。

 平「本当に不思議な足だよ。何でも時計の螺旋(ゼンマイ)の様な仕掛けに成って居て、一たび捲き締めれば、緩急(むら)も無く進行すると見える。」
 茂「アア全くそうだ。呼んでも無益だから、その螺旋を腕力で引き留めるより外仕方が無い。」
と云い、茂林は又一散に駆けて行って、

 「コレ帆浦女よ。」
と云ってその左の手を取ると、女はまだ足を留めず、馬諸共に茂林を引き去る勢いであったが、やがて平洲が追付いて、同じく右の手を取ると漸く留まり、非常に腹立たしい眼で、貴方は私を捕らえて何を成さる。」

 問う声まで厳重である。茂林は腫物に障るほどの用心をして、
 「何をと言って吾々一同、何れほど心配したか知れません。貴女の姿が見え無いので。」
 「オヤ私の事をそれほど心配して下されますか、成程お二人は心配して下さっても、寺森さん丈は平気でしょう。」

 異様な言葉を聞くものかなと怪しみながら、
 「何うして、寺森だって皆同じ事ですよ。」
 「ではきっと黒人女に嫌われた為でしょう。」
 二人は初めて先に見込んだ通りである事を知った。

 昨夜寺森が、黒人婦人の皮膚を研究しようとして、その許に行き、帆浦女の傍には来なかった為め、先頃以来心に寺森を我が人と定めて居た帆浦女は、非常にその仕うちを恨んでいたのだ。

 「でも何故に貴女はそう早く歩むのです。」
 「ハイ心の中に辛い事が有りますから、身体が疲れ尽くすほど歩めば、心も少しは紛れるかと思いまして。」
 「貴女は心に、それほど辛い事が有りますか。」
 帆浦女は呆れた様な調子で、

 「オヤそれが、貴方がたには分かりませんか。」
 宛(あたか)も天の神をも証人に呼び降ろそうとする様に、天を仰いで言い出したので、
 「イヤ何れほど辛い事が有るにしても、私と茂林のした事では無く、何も二人が引き留めるのを、更に引き摺って歩むには及ばないでしょう。二人は全く貴女の身を気遣って尋ねて来たのですから。」
とこの上も無く優しく云うと、此の時まで、まだ隙が有ったら走り出そうと藻掻いて居たその身体を鎮(しず)め、

 「アアそれはそうです。お二人を振り払らおうとしたのは、私の過ちでした。」
 「ではここで後から来る一同を暫く待ちましょう。」
と云うと、未だ我が足は歩み不足で、この通り不平であるとの意を示そうとする様に、靴の踵(かかと)で石の上を踏み鳴らすので、

 「イヤ今に初まった訳では無い貴女の健脚には、感服の外は有りません。もう我々の馬の足が酷く疲れて来ましたから、馬を可哀そうと思うならば、何うか少しの間ここでお待ち下さい。」
と云うと、我が足が馬よりも達者なのを証明する事が出来て初めて安心した様に、

 「だから此の辺の馬や、駱駝は亀の子の足よりも活智(いくじ)が無いと私が申したでは有りませんか。」
と、漸く承知の色を見せ、
 「では後の人を待つ間に、私は食事を致しましょう。」
と云い、胴に巻いて居た糧食を取り出して、食べ始めた。

 たとえ心には辛い所あっても、胃の腑には何の痛みも無く、是れまた馬ほど達者であることを示した。



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