巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou32

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.5.13

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         第三十二回 勝手に思い込む帆浦女子

 帆浦女が食事を始めた間に、平洲文学士は首尾良く彼女を発見した次第を、芽蘭(ゲラン)夫人に知らせて安心させようと、馬で元来た道へ引き返したが、後に帆浦女と差し向かいに残った茂林画学士は、成るべくこの女の心を慰めてやろうと思い、頻(しき)りに平洲の事を褒め立て、寺森医師よりも平洲の方が深く貴女に感服し、陰に廻れば唯だ貴女の事ばかりを噂しているなど、宛(あたか)も平洲が全く彼女に心酔している様に仄(ほの)めかすと、

 帆浦女の心は徐々(そろそろ)と解けて来て、それなら不実な寺森を思うより、黒人婦人などには見向きもしない、平洲文学士を意中の人に定めようと、この様に思い直して、自ずから心の痛みを癒(いや)すことが出来たと見え、ややあって平洲が芽蘭夫人等の一同を向かえ、再びここに来た時は、帆浦女の様子は唯だ平洲に向かってだけ優しく、不実と認めた寺森医師には見向きもしなかった。従って恨みを云おうともしなかった。

 更にここから進み進んで、一同昼食の為めに憩う時と為り、寺森、平洲、茂林は、帆浦女と少し離れた所に集まって居ると、茂林は先程帆浦女の心を、巧みに平洲へ振り向けた次第を明かすと、寺森医師は喜んで笑うのに引き替え、平洲は非常に迷惑気に、

 「それは余りに酷いよ。」
と云い、眉を顰(ひそ)めて一種の相談を持ち出し、食事をしながら話し合って、漸く決した一条と云うのは、今まで三人とも旅の退屈を紛らす為め、戯れに帆浦女に向かって、銘々宛(あたか)も深い心の有る様に見せ掛けていたが、是れは極めて危険な戯れにして、若し旅行中に、真に帆浦女の心が、この中の一人に決まることは非常に好ましくない。

 だからと言って急に一同から余所余所しく仕向けては、彼女の性格からして如何ほど怒って、如何なる事を仕出かすか分からないので、三人は互いに彼女の心を他に向けようとばかり勉め、宛(あたか)も茂林が平洲に振り向けた様に、平洲は勉めて彼女の心を元の寺森に振り向けようとし、寺森は又勉めて茂林に振り向けようとすると、彼女は中に立って、どちらとも決することが出来なくなるだろう。

 平洲の言葉を真実と思って、寺森の所に行くと、貴方に好意を持って居るのは私では無く、茂林であると云われ、茂林の所に行くと又私では無く平洲であると云われ、果ては心を三人へ平均に配分して、誰とも決する事が出来ずに終わるだろうと云うことに在った。
 この様な取り留めもない事まで話し合うのも、又是れ旅の退屈さから出て来るのに違いない。

 食後又進んで終に「ローアイ」の井(ウエル)と云う所に達し、一泊する事と為ったが、井(ウエル)の辺(ほと)りに住む原住民は、是れまでも白人の遠征隊が、時々ここを通り過ぎるのに逢い、多少は白人と親しむ事を知っているので、一同が張った天幕(テント)を見て、村中挙(こぞ)って三十人ほどの男女老若が集って来て、口々に何事をか叫び立てるので、通訳亜利に、彼等は何を云っているのかを聞くと、

 「医者は居ないか。薬を呉れ、薬を呉れ。」
と叫んでいるとの事である。寺森は不審気に、
 「この村の奴等は皆病人だろうか。」
と云うと、平洲は思い出した様に、

 「アア僕の読んだ誰かの旅行記に出て居たよ。この井(ウエル)に休んだ時、薬だと云って砂糖を与えた所、木の実より外に、甘い物が有る事を知らない原住民等は、我も我もと喜んで同じ薬を貰いに来たと有った。矢張り彼等は白人の医者なら、甘い薬を呉れる者と思い、一同で遣って来たのだ。」
と云う。

医師は頷(うなず)き、
 「それなら好い工夫が有る。」
と云い、手提げの中から何やら水薬を取り出して、之を又砂糖水にまぜ、通訳に、
 「一同舌を出せ」
と云わせると、三十人一時に口を開き、舌を突き出だして待つ有様は、実に異様な見物なので、此方(こちら)の一同は、余りの可笑しさに殆ど一日の疲れをも忘れたが、寺森医師は真面目にその舌を見比べて、

 「フム病人は一人も居ない。是は桂皮(ニッキ)油だから、甘くも有り辛くも有り、唯の砂糖とは味が違うだろう。」
と呟(つぶや)きながら、銘々の舌へ一匙づつ注いで廻ると、皆が嬉しそうに叫び、小躍りして立ち去った。

 後で亜利に聞くと、
 「この医者の方が、前の医者より上手だ。」
と褒め立てる言葉だったと言う。
 翌朝も又来たので、又も同じ薬を施し、さて愈々(いよい)よ出発しようとすると、馬の中の一頭に病に罹った物があった。

 一日ここに休まなければ、その病が更に重くなって、廃物と為る恐れがあるとの事なので仕方が無く、一行野宿のままで逗留する事とはなったが、此の日は朝の中から、一天異様に曇って、熱くて蒸される様だったので、殆ど天幕の中にばかりは居られない心地がしたので、平洲文学士の発意で、右手に当たる山の半腹に上り、この辺の景色を眺めて来ようと云うことに決まった。

 この所の山は、昔フアラオ王が登ったと旧記にも記して有るガレット山で、山骨皆な花崗岩(御影石)から成り、多く他の国には見られない特徴がある。半腹の所々に平地があり、一同が野宿している所から二哩(マイル)《3.7km》程で、麓まで行かれ、麓から又二哩も行けば、その平地に達する様に見えるので皆が賛成したが、中にも特に帆浦女は、平洲の発議と見て喜ぶこと限り無く、

 「皆様が若しお厭(いや)と言っても、私は独りででも平洲さんのお供をします。一日天幕の中へこの足を眠らせて置く事は、とても私には出来ません。」
と云う。しかしながら一同はこの山に、如何(どれ)ほどの危険があるかを、予想する事が出来なかったことは、又憐れむべき事であった。



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