巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou34

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.5.15

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         第三十四回 無事だった一行

 芽蘭(ゲラン)夫人等の逃げ込んだ空井戸に、大石が砕けて降り込んだのみならず、今は水さえ落ちて入り、波が巻き返す有様なので、それを見た茂林は声を放って泣き、
 「アア夫人も平洲も寺森も、この穴の底で大石に打ち殺されたか。この様な事と知って居たならば、自分も穴の中へ入り、皆と一緒に死んだ者を、エエ、唯一人生き残ったのが恨めしい。」

と云い、又も穴の中を指し覗くと、逆巻く水に一人の死骸さえも浮かび出て居ないのは、全く落ち入った石の下に圧死した為に違いない。実(げ)にも無惨に耐えられず、茂林は兎に角もこの穴の底に潜(もぐ)り、水の中を調べて見ようとの心を起こした。

 今この底に潜り入れば、助かって出て来る見込みは無く、一同と悲しい最後を共にするのみなれど、茂林の心では死んで一同の後を追うのが、生き存(ながら)えるよりは遥かに増しだと思うのだ。だから茂林は既に飛び入る覚悟で、身を穴の方へ突き出すと、此の時幾間(4、5m)か背後(うしろ)に当たる辺りから、

 「旦那は居ませんか。茂林さんは居ませんか。」
と呼ぶ声があった。呼ばれだろうとは思っても居ない時だったので、驚いて耳を澄ますと、確かに通訳亜利の声である。さては彼は一同を案内して此の穴に入りながら、自分一人は幸いにも何かの理由で、彼の大石が落ちる前に此の穴から出たものと見える。

 彼の様な者一人が、我が外に生き残っても、我が身に取っては何にもならない。夫人が死し、平洲が死し、寺森が死し、帆浦女までも死んだ後に、我れは生き残る気は無いと、死ぬ決心は少しも動かず、再び身を躍らせて飛び込もうとすると、又も遥か下の方に当たる方から、
「茂林君、茂林君」
と声を揃えて呼び立てるのは、確かに平洲及び寺森の両人である。

 彼等は茂林に先立ってここに登り、此の穴に入る所を茂林の目で確かに認めた事なので、この穴で死んだことは確実であるのに、どうして穴の外に居るのだろう。彼等がこの穴に入ってから大石が落ちるまでは、実に僅かな間で、その前に脱け出る暇は無かった。たとえその暇が有ったとして、落雷の前に脱け出たとしても、茂林より山の上の方に居る筈である。下の方に居る筈は無い。

 さては私は余りの驚きに発狂し、根も無い妄想が心に起こり、無い声までも聞こ得て居るのだろうか。そうだ、強く心を動かした場合に、そうしたしも有ると聞くので、きっと自分の妄想から、この様な声を聞いたものに違いないと、茂林は自分の心を鎮めたが、平洲、寺森の呼ぶ声は益々近くに来て、もう疑うことも出来なくなったので、初めて背後に向き直り、

「オオ茂林はここに居るよ。平洲君か、寺森君か。」
と云い、我知らずその声の聞こえる方を指して走ると、間も無く両人の姿をも見る事が出来た。茂林は心配そうに身を震わせながら、

 「芽蘭夫人は死なれたのか。」
 「イヤ無事で居られる。」
 寺森も言葉を添え、
 「誰も死にはしない。帆浦女までも無事だ。」

 茂林はまだ不思議で仕方が無かったが、無事と聞く嬉しさに心の重荷を卸し、
 「では何処に居る。何処に居る。」
と迫込(せきこ)んで問うのも無理はない。

 「イヤこの少し下まで、先刻の案内者が、この天気に我々の身を気遣い、様子を見に上がって来たから、それに夫人と帆浦女を托して有る。夫人も帆浦女も少し皮膚を引掻かれて出血はしたけれど、ナニ傷と云う程の事は無い。」

 茂林は心が少し鎮まって来たので、平洲、寺森の姿を見ると、此の二人も手足や顔などに引掻いた様な傷があり、まだ血が出る有様だったので、
 「全体君方や夫人達は何うしたのだ。是ほど納得の行かない事は無い。アノ空井戸へ入ったと見て、少し経つと落雷に大きな石が砕けて落込み、引き続いてその大石に堰留め(せきと)められて居た水が、滝の様に注ぎ込んだから、勿論石に圧(お)されて死んだ事と思ったのに、この通り生きて居る。
 多分、石の落ちる前にアノ穴から出たので有らうが、それにしては多少怪我して居るが、益々不思議だ。」

 「ナニ大石が砕けて落ち入った時に、僕等はまだ穴の中に居た。居たけれどアノ穴は空井戸では無く、岩と岩との間の洞穴で、下へ降りると穴が横に曲がって平と為り、初めに君が立って居た此の平地まで抜けて居る。この穴へ流れ込む水は下の平地へ注ぎ出るのだ。我々は穴の中へ入り、振り込む雨を避ける為めズッと横の方へ奥く深く曲がり込んで居たから、石は落ちても石から三四間(5~6m)離れて居た。

 何しろ落雷と落石の物音には驚いたが、直ちに上から水が来て我々を突き倒し押し流した。一同起き直って、又突き倒され、穴の中を這うやら流されるやらして、奥へ奥へと突き込まれると、意外にも平地へ転がり出た。
 真にアノ穴が横に抜け通つて居たから助かったが、若し奥が行詰まった穴なら我々は今頃既に穴の底に水葬せられて居る所サ。」

 実に意外な幸いである。
 彼の穴が真に他へ抜け通って居ない空井戸だったならば、一同の運命は全く茂林の思い詰めた通りと為る所であった。茂林は漸く納得が行き、
 「その様な穴で有ったのは一同の運の強い所だ。それにしても夫人の怪我は全く気遣う程で無いのか。」

 寺森は医者だけに、
 「それは僕が保証する。幸い旅行に馴れた帆浦女が、常に繃帯(ほうたい)などを用意して居る丈に、既に彼女の手で夫人に手当を施して居る。繃帯を掛けるなどの業は、帆浦女の方が僕よりも慣れて居る。」

 平洲は口を添へ、
 「所で夫人は自分の怪我を何とも思わず、唯だ君の安否ばかりを気遣い、若しアノ落雷で君の身に変りは無いかと、この通り我々に命じ君を尋ねて寄越したのだ。僕は寧ろ君に成り替わり夫人に気遣われ度い。」

と云うのは、平洲は早や既に夫人の心が、茂林に傾いたのではないかと思い、我知らず口に出る嫉妬の一端でではないだろうか。この様な嫉妬は折に触れて両人とも心に湧き出る事があるが、夫人の為す事は全く公平な為め、どちらも唯だ一時で消えてしまう。

 平洲もこの様には云った者の、言葉が終わると共に、我が心の過ちを悔いたと見え、
 「許し給え」
と云わない許(ばか)りに茂林の手を握り締めた。茂林の方も素より意には留めず、
 「では早く夫人の許へ行き、無事を報じて安心させよう。」
 {サアさあ行こう。」
と歩み初める折しも、寺森医師の顔に異様な微笑が現れたので、茂林は悸(ぎょ)っとして、

 「コレ寺森君、君は此の不幸に附け込み、ここで勝負を持ち出す積りだネ。」
 「そうだ。」
 「今若し真に僕を召喚すれば、僕は少しの猶予も無く君を縊(し)め殺すよ。」
 寺森は打ち笑い、

 「安心し給え、昨日の勝負に僕が勝ったから、今日は君から召喚せられるので、僕から召喚する権利は無い。僕は今、寧ろ昨日負けて置けばここで君を召喚して遣る者をと思い出し、残念でツイ涎(よだれ)が流れ相に成ったから笑ったのサ。」

 茂林はヤッと安心し、
 「アアそれなら良い。僕が今日の権利者か。では僕から召喚して賭けをする。サア君、早く夫人の居る所まで駆けて往(ゆき)ッ競(こ)だ。」
 寺森は聞くより早く、
 「好し来た。」
と云い一散に走り出した。

 茂林は悠々と後で笑って平洲に向かい、
 「こうして寺森を走らせれば、一刻でも早く夫人に僕の無事が分かる。僕が息咳切って走る姿を夫人に見られるは感心しないから、実は勝負に負けた積りで、寺森を飛脚に立てたのだ。」
 
平洲も、
 「成る程それは旨(うま)い考えだ。」
とて打ち解けて笑ったのは、真に兄弟よりもっと睦まじい恋の敵と云える。



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