巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou38

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.5.19

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         第三十八回 奴隷を助ける平洲たち

 早や十町《1km》許かりの所まで進んで来た奴隷の一隊を、一同は篤(とく)《じっくり》と見ると、前に三人馬に乗って進むのは、即ちこの奴隷を買い入れた商人で、他人に売り渡す迄の持ち主に違いない。奴隷の数は正確には数えられないけれど、いずれにしろ百人以上にはなるに違いない。

 どの奴隷も片手を錠付きの鎖で縛られ、その鎖をば長い一条の縄に結んで、縄の端は先に立つ馬上の人が引いて行くので、その有様は、大勢が悉(ことごと)く手を取られて、引かれているのと同じだ。一人逃げようとするには、我が手を縛(しば)る錠付きの鎖を切らなければならない。

 或いは疲れて足が立たなくても、仕方なくその縄に引き摺られて行くのだ。中には手錠だけでは制し切れない為め、重い首枷(かせ)を嵌(は)められて、振り向くことすら出来ない様に縛(いまし)められて居る者も有る。是等は皆屈強な体格を備える者である。

 更に又奴隷一同の頭の上には多少の荷物を結び付けて有り、これは即ち奴隷商人が自分達の携帯品を、馬に積まずに奴隷に積んだ者である。
 息も吐き難い炎天に、溶(と)ける様な砂漠の中をこの様な有様で、幾里とも無く引かれて行く、その苦しみは如何ほどであろうか。

 それも承知ならば未だしもなれど、宛(あたか)も野獣を捕らえるように腕力によって押し捕らえられ、無理無体に捕縛して連れて行かれる者なれば、妻に分かれた所夫(おっと)も有るだろうし、子を失った母も有るだろう。是を思えば世に奴隷ほど傷(いた)わしい者は無く、又奴隷商人ほど性悪な者は無い。

 平洲、茂林、寺森の一同は面(まのあた)りに、此の無惨な様を見て、怒気心頭に溢れ、何とかして商人を打ち懲らし、この奴隷を解き放つ工夫は無いものかと、口には敢えて発しなかったが、銘々同じく心を砕くのは、持って生まれた人間の情に違いない。

 しかしながら此方(こちら)は通訳及び従者を合わせて、男七人女二人にして、彼方(あちら)は先に立つ三人の外に、更に監督の名目で、縄の前後所々を取り、鞭を持って疲れる奴隷を打ち懲らしながら進む者十二人あり、合わせて十五人の一隊である。

 七人に足手纏(まと)いの女二人を連れた者が、素より之と戦える筈もない。唯だ彼方の弱みと思われるのは、十五人の内の一人、途中で病気になったのか、馬の背なに力無く俯仆(ふしたお)れて、更に転げ落ちるのを防ぐ為、縄で身体を鞍に縛(くく)り付け、荷物同様の姿と為って、顔も上げる事が出来ない有様である。

 この一人だけは働く事が出来ないことは確かであるが、だからと言って、彼等の足手纏(まと)いと云うのでも無い。緊急の時には、彼等はこの者を捨てて置いて戦うに違いない。此方(こちら)の人々が、婦人二人を保護しつつ戦うのとは同じでは無い。

 だから平洲も茂林も、若し芽蘭(ゲラン)夫人と帆浦女さえ傍に居なければ、敗れるまでも戦って見るものをと、空しく心の中で悔しがるばかりであった。この様にしている間に、一隊は徐々(しずしず)と一同の前に差し掛かったが、近くで見れば無惨の有様は又一層ひどいものであった。

 中でも酸鼻に耐えられなかったのは、年二十歳余りと見える一人の女、身胎(みもち)と覚しく、重い腹を抱えて歩くにも歩くことが出来ず、一同の前に来た頃は全く力が尽き果てて、地上に摚(どう)と倒れたが、片手を縄に縛られて有るので、倒れたまま引き摺られ、息も絶え絶えな声で、悲鳴を挙げつつ転がり行く有様であった。

 三人は最早や我慢をする事が出来ず、
 「実に捨てては置けない。」
と呟(つぶや)き、顔と顔とを見合わすと、此の時監督者の一人は此の女の傍に歩るいて来たが、或いは此の女を解き許すのかと思いの外、太い鞭を上げて、
 「エエ歩るかぬか。」
と罵(ののし)り、痛々しく叩き伏せた。

 茂林はこの有様に我を忘れ、
 「己れ」
と云い様、馬を躍らせてその傍に馳せて行くと、平洲も寺森も後(おく)れも取らず、驀地(まっしぐら)に続いて行き、その監督者を三人で沙の上に投げ倒し、更に起き直る胸の辺りに、左右から短銃を差し附けて、
 「サアこの女の手錠を解く鍵を渡せ。」
と命じた。

 先に立つ奴隷商人の統領は、この有様を見ないわけでは無かったが、何うせ此の女は遠からず沙漠の中で死ぬのに違いない事を知り、此の上連れて行っても仕方が無いと思ったのに違いなく、それほどまで怒れる様子も無く、殆ど知らない顔で見過ごそうとする。

 その中にあって、平洲は監督者が鍵を出だすのが遅いのを悶(もど)かしく思い、衣嚢(かくし)《ポケット》から鋭い小刀を取り出して、真ん中の引き縄を截(た)ち切ると、之と同時に茂林は鍵を受け取り、この女の手錠を脱した。

 この女より後に繋(つな)がる二十人ほどの奴隷は、宛(あたか)も長い蛇の尾の辺りを断ち切られた様に、総体から切離れて歩みも急に止まったので、そうと見て平洲も茂林も、事が思ったより旨く行ったのに力を得、

 「寧(いっ)そ此の縄を本の方から切って仕舞え。」
との声は両人の口から一斉に発し、その上寺森まで実にそうだと思ったか、三人斉(ひと)しく小刀を取り出だし、馬を矢の様に走らせ、手当たり次第に中央の引き縄を五、六カ所も切ったので、長蛇の隊は愈々(いよいよ)取り纏(まと)める事が困難な、数隊の小列に分かれてしまった。

 茂林は手早く彼の鍵で、主な奴隷の手錠を解いて遣ろうと取り掛かると、商人一同は此の時まで三人の早業に、何の事なのかを理解する事が出来ない程の有様であったが、縄が幾切れに切れて、奴隷が彼方(あちら)此方(こちら)に離れたのを見るや、烈火の様に怒り、その頭(かしら)から、

 「狼藉者を射殺して仕舞え、サア、一同隊を揃えろ。」
と命を発(はな)つと、聞く間に病者を除き十四人、悉(ことごと)く統領の許に集まり、列を正す様子は、この様な戦いに慣れ、規律が充分整っている者と知られる。見ているうちに統領は其の中の三人に、奴隷の取り纏(まと)めを命じると、此の三人は通訳なりと見え、野蛮語にて奴隷に向かい、何事をか言い渡し、残る十一人は足並み揃えて、平洲、茂林等と、芽蘭夫人等との間の空地へ割って入り、一方には夫人等を虜(とりこ)にする手順を計って、又一方には平洲等に向き銃の筒口を揃えた。

 平洲、茂林、寺森三人は、実に一時の血気に動かされて、余計な事に手を出だし、生きて再び逃れ難い、難場に陥った者と云わなければならない。



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