巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou50

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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          第五十回 火薬の樽に火が

 統領及びその手下は、見る間に益々酔って来て、命の貴重なことをも忘れ、手に持つ蝋燭が、屡(しばし)ば火薬の樽に近づくのを、危うしとも思わない様子なので、その危険な事は何とも言い様が無く、彼等がこの船を破裂させ、一同と共に亡びるのも、最早や目前の事であるに違いないと、思われる迄になったので、此方(こちら)の船長は、この上一刻も捨てては置かれないと見、佶(キッ)と彼等に向かって、

 「その蝋燭を消して仕舞え、サア五分間の猶予を与えるから、その間に蝋燭を消さなければ、容赦無く射殺するぞ。その代わりここで蝋燭さえ消せば、お前等の命だけは助けて遣る。」
と最後の決心を言渡すと、統領は非常に落ち着いて嘲笑(あざわら)い、

 「ナニお前から五分間の猶予など貰うものか。俺の方からお前へ三分間の猶予を遣るワ。奴隷をそっくりこの儘(まま)残して、お前等だけ三分間に、素直に此の船を立ち去れば好し、三分間を経ても立ち去らなければ、火薬を以てお前等ぐるみ、此の船を砕いて仕舞う。サア立ち去るか何うだ。」
と云いながら、蝋燭を片手に持った儘(まま)、火薬の桶の蓋(ふた)を悉(ことごと)く開き尽くした。

 今は全くの過ちで、火の粉一粒を落としても、船は忽(たちま)ち破裂する恐れがある。彼は猶語(ひとりごと)を継いで、
 「お前等、若し鉄炮を持つ手を一寸でも動かせば、それを合図に火を放つぞ。サア俺に鉄炮を向けるなら向けて見ろ。鉄炮と火薬と何方(どっち)が早いか比べて見よう。」

 比べて試みる迄も無く、彼等の早いことは確実なので、此方の船長は持て余し、如何にしようかと思案する間に、彼の統領は更に一筋の縄を取り出し、その一端を火薬の中に埋め、又一端を桶の外に出して導火線の様にし、桶の外にあるその端に火を付けた。

 統領は縄が次第に火薬の桶に燃えて行くのを見、
 「サア大抵三分間の長さを測って有るのだから、三分経てば否応無しに破裂する。その前に大人しく帰り去るか、又は吾々と共に此の船で死ぬか勝手にしろ。死んでも冥途までお前等を供に連れて行くなら、命は少しも惜しくは無い。お前等ばかりか、其所(そこ)に居る百余人の奴隷達も、冥途へ俺の供をするのだ。それとも大人しく立ち去れば、此の縄の火を揉み消して、奴隷の命も助けて遣る。」

と有らん限りに悪態を並べるので、士官は悔しさに拳を握り、殆ど今にも飛び掛からんばかりの勢いであったが、思い直して、芽蘭(ゲラン)夫人の所に来て、
 「私は仕事ですから死んでも仕方が無いですけれど、貴女がたの身を危うくしては済みません。何う痛しましょう。」
と問う。

 芽蘭夫人は少しも騒がず、
 「致し方が有りません。私共にはお気遣い無く、貴方が思う存分に自分の仕事をお尽くし成さい。」
ときっぱりと答えたのは、奴隷幾百人の命を救う為には、命を危うくすることも厭(いと)わないとの決心であるに違いない。

 傍に立つ平洲も寺森も一斉に、
 「そうですとも、吾れ吾れも貴方に加勢して、彼を射殺します。」
と士官に言うと、又た背後から、
 「私も短銃を持て居ますから。」
と云うのは、男の傍にあって、露ほども弱気を示すことをしない、彼の帆浦女である。

 士官は此の数々の言葉に励まされ、小声で手下の水兵に一斉射撃の用意を命じたが、是が若しフランス国の兵ならば、如何なる危険をも恐れずに、上官の命に従うに違いないが、悲しいことにはエジプトの水兵達で、訓錬に足りない所がある上に、普段から奴隷商人の乱暴を知り、幾度もこの様な場合に、船を砕いて一同と共に水底の藻屑と為った実例を、聞いて知って居るので、命の有る間に逃げ去ろうと身を構え、士官の命に応じようともしない。

士官は言う甲斐無しと怒り、
 「お前等の様な者は頼みにしない。サア貴方がた手をお貸しなさい。」
と平洲及び寺森に向かって云い、三人咄嗟(とっさ)の間に銃先(つつさき)を揃えようとすると、此の時導火の火縄は、僅かに桶の外へ三寸《9cm》ほどを余し、唯だ一刻で火薬に移る所であったが、彼の統領は之れをさえ、待つ暇は無いと見てか、更に蝋燭を振り立てて、

 「エエ、最早や仕方が無い。約束通りだ。」
と云い、此方の狙いが定まらない間に、その蝋燭を火薬の中に投げたが、此の時遅く彼の時早し。蝋燭のまだ落ちない間に、どこからか滝の様な大水が、アッと落ちて来て、その蝋燭をも導火をも消した上に、火薬の桶をまで湿して、容易には火の移らない事と為った。

 一同は余りの意外な出来事に、殆ど何事が起きたのかを知らない。既に蝋燭が消えて後、漸く怪しい水が落ちて来た為であることに気付いたけれど、何の所から何の水が落ちて来たのだろうか。滝か驟雨か、唯だ呆気に取られたまま、四方を見たが、此の辺りに滝は無く、空は又一面に晴れ渡って満月が輝き、雨の落ちて来る道理も無い。

 此の時本船の甲板に当たって、ドッと鯨波(時の声)が揚がったので、初めてその方を見ると、先に唯一人本船へ引き返した彼の茂林画学士が、後に残っている水兵と共に、備え附けの喞水(ポンプ)を取り出し、此方の火薬を目掛けて水を注いだのだった。



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