巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou51

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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           第五十一回 奴隷船の出火

 実に茂林の働きには一同肝を潰して驚き、頓智の程に感服《とてもかなわないと心から感心する事》したが、これで敵が命と頼んだ彼の火薬は水に湿(しめっ)て、再び焙(あぶっ)て乾かす迄は、火が移らない事と為ったので、此方(こちら)の士官は平洲、寺森及び水兵一同と共に、直ちに敵の統領以下を取って押さえ、犇々(ひしひし)《きびしく》と縛(しば)り上げた。

 是で一方は片付いたので、更に奴隷等に向かい、その郷里を問うと、孰(いず)れもナイルの支流ガゼル河に沿った村の者で、隣村との戦争に捕らわれて、この様に奴隷に売られた者だと云う。

 素より士官の乗っている汽船は、唯だナイル河を取り締まる丈で支流へは乗り入れない者ではあるが、幸い芽蘭夫人等の一行はガゼル河に入り、その河上レツクと云う所まで進む見込みなので、此の奴隷船を引いて行って、奴隷一同をその郷里へ送って遣ろうと云う事に決した。

 それで奴隷船をも蒸気船の後に結び、夫人等の船と共に之を引いて行く事と為し、彼の捕縛した奴隷商人は、士官が此の河の巡視を終えた後、ハルツームに連れて行って、それぞれ罪に処すべき者なので、虜(とりこ)として本船の一室へ監禁して置いた。

 この様にして船は再び進行を始めたが、乗客中独り平洲文学士は、今夜の働きで茂林に一歩を譲った事を悔い、彼れと我とは手柄を以て競争する者なのに、彼れに是ほどの手柄を現されては、夫人の心が直ぐにも彼れに傾いてしまう恐れが有る。我れも何とか彼に並ぶ丈の手柄を上げようと、唯だそればかりを思って眠ることが出来なかった。

 船中一同は疲れ果てて船室に退いたが、平洲は甲板の上に在り、河に輝く月の景色も目に留まらず、心を痛めて佇立(たたず)んで居たが、凡そ二時間をも経った頃、後ろに引かれる彼の奴隷船に、異様な火が燃え上がった。若しや奴隷等が誤って船に火を失したのでは無いかと、艪の方に馳せて行って見ると、火の色、或いは白く或いは青く、しかもその火の手は甚だ盛んで、焔々と燃え広がる勢いが有った。

 火の色こそ怪しいけれど、何様船火事に相違無く、その中に奴隷等が悲しそうに叫び立てる声も起こったので、平洲は直ちに水兵等を呼び起こし、咄嗟の間に救いの小舟を下ろさせると、疲れて寝ていた人々も物音に驚いて、追々に起きて来て、中には先程の茂林の働きを思い出して、早く喞水(ポンプ)を喞水(ポンプ)をと叫ぶ者も有った。平洲は大声で、

 「アノ火は喞水(ポンプ)で消える火では無い。今水を掛ければ益々勢いが強くなるのだ。」
と叫んで制し、自ら水兵と共に小舟の一に乗り、早速奴隷の船へ漕ぎ附けたが、後で失火の原因を聞けば、奴隷等が自由を得た事に喜んで、船の中にある食糧を取り出して祝宴を張り、積んであった火酒の樽を開き、飲みつ騒ぎつする間に、過(あやま)ってその樽をひっくり返し、低くなっていた蝋燭の火に注ぎ、忽ち火酒に火が移った物であった。

 それで火の色が異様な色である一方、その勢いも又異様にして、消えそうに見えて実は盛んで、殆ど消し止める手段も無かったのだ。平洲が先頭第一に漕ぎ附けた時は、火は早や帆に移り、檣(ほばしら)に移り、悉(ことごと)く燃え易い木材に移った所で、百余の奴隷は火の間を逃げ迷い、唯だ叫ぶのみであったが、船の火は到底消す事が出来なくても、人命を救うのが大切なので、平洲は船に飛び移り、手当たり次第奴隷を捕らえて、己が乗って来た小舟の中へ投げ込もうとすると、人多くして舟少なく、如何にしても救い終わる見込みは無い。

 本船に向かって、
「有る丈の小舟を降ろせ。」
と叫び、必死と為って働くうち、フト目に留まったのは、この奴隷船を他の船に繋(つな)いでいる大綱である。

 平洲は茂林にも劣らない早速の頓智で、その綱に手を掛け、力に儘(まか)せて引こうとすると、素より一人の力でこの船を、他の船の許へ引き寄せる事は出来ないけれど、奴隷等もその意を察してか、中でも力のある者三、四十人ほど、直ちに馳せて来て、共々に綱に縋(すが)り、曳々と引き手繰(たぐ)ると、孰(いずれ)れも死力を出した事なので、船は次第に他の船に近づき、飛び越えて乗り移る事の出来る程とは為った。

 奴隷等が我先にと他の船へ乗り移る間に、本船の小船も悉く来て、茂林も寺森も他の水兵等と共に、危きを忘れて働き始めたので、平洲は更に一方で、無難の船へ乗り移る事が出来ないで居る女子供を抱き上げて、下の小船に投げ込みなどすると、凡そ八、九十人をも助けたかと思う頃、本船の船長から、

 「他の船へ火が移る恐れが有る。綱を切ってその舟を流して仕舞え。」
との命令あり。しかしながら平洲はこの命令に従わず、
 「こうすれば他へ火の移る恐れは無い。」
と云い、以前に手繰(たぐ)った彼の大綱を延ばして弛めると、船は流れの為忽ち幾間《数m》か他の船と遠ざかり、今まで飛び越えて乗り移ろうとしていた奴隷等も、今は飛び越す事は出来なくなり、唯だ小舟で救われる一方とはなったが、火勢は益々強くなり、殆ど身を焼かれる思いがした。

 しかしながらまだ救いに洩れて、泣き騒ぐもの卅人ほども有ったので、平洲は身の焼け爛(ただ)れるのを厭わずとの決心で走り廻るうち、船長からの第二の命令は、
 「先刻の火薬がもう乾いた、破裂しない間に早く逃げろ。」
と云うに在った。是には平洲も驚いて、先程の火薬桶が並んでいる所を見ると、成程火はその傍らに燃えて行き、既にその桶を外側から焼きつつ有った。



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