巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou52

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第五十二回 愈々自前で奥地へ

 火薬の桶は既に猛火に囲まれ、その破裂するのは唯だ瞬間に在り。しかしながらまだ二十人ほどの奴隷、逃げ場に迷って狼狽し、中には泣き叫んで平洲に取り縋り、振り払っても離れない者すらも有る。外の水兵は、
 「逃げよ」
と言う船長の命令に、奴隷を抱いたまま下のある小舟に飛び込んだ者も有るが、平洲一人はなかなか逃げ去ろうとしない。

 残こる奴隷を一々小舟に投げ入れたが、最後の一人を抱き上げた時は、小舟は悉く逃げ去って、その身の逃れる所は無い。しかしながら平洲は水泳の心得があるので、そのまま川に飛び込んだが、幸いにして船長と茂林とが、特に平洲を救う為に、別に一艘の小舟を漕ぎ、矢を射る様に急いで来たので、焼けつつ有る奴隷船から幾間(数m)か横手に泳ぎ去った所で、抱いたままの奴隷と共にその小舟に取り上げられた。此の時船長は本船に向かい三度目の号令を発し、
 「綱を切れ」
と叫んだ。

 水兵は直ちに奴隷船を繋(つな)いでいる大綱を切り離したが、是れは実に際疾(きわど)い所で、奴隷船が僅かに十数間《20数m》流れ去った時、轟然一声、彼の火薬に火が移り、天地が震(ふる)える程の響きで、奴隷船は片々に割れ砕け、波は河の底から覆(くつが)えるかと疑われる許(ばか)りに逆巻き、平洲の助け上げられた小舟も、やっと転覆を免れただけだった。

 既にして平洲等は本船の上に帰ったので、船員口々に平洲の勇を褒め、火薬の破裂する間際までも奴隷を救い、一人の死者も出さなかったことは、世に珍しい働きであると言って、中には平洲の手を握り締める者も多く、特に船長は、芽蘭夫人に対し、御身等一行の力で此の船は、今迄の巡視船に例の無い程の目覚ましい手柄を挙げたと言い、只管(ひたすら)に謝辞を述べた。

 是で平洲と茂林との手柄は、甲乙無い事と為ったので、両人とも満足し、翌日は船長の催しによって、慰労を兼ねた祝宴を開き、非常に心地良く日を暮らした。此の又翌朝は、船は益々進み、チローク種族と云う蛮民の住む近辺まで達したので、一同は甲板に出て見ると、両岸の森から水際に掛けて、無数の水牛、水馬など、朝風の爽やかなのを喜ぶ様に群れ戯(たわむ)れ、鰐(わに)なども其所此所に泳ぎ遊ぶ様子は、面白いことと言ったら言い様が無かった。

 やがて又一里《4km》ほど進むと、河の一方に数十の小舟が浮かび、舟には一名又は二名の蛮人、各々手に投げ槍を持ち、水馬を追い廻しつつ有り、アフリカで水馬狩りは、象狩りに次いで危険な仕事で、水馬が怒り狂い、野蛮人が巧みにその怒りを避け、虚を伺って攻め立てる様は、戦争にも異ならない。

 一同は好い所へ来たと、甲板からその様を見ていたが、一頭の水馬は既に縄が付いた槍を打ち込まれ、手負いと為って水中を逃げ廻ったが、その勢いは甚だ強く、時々振り返って首を上げ、歯を現して小舟を覆えそうとする事も有るので、茂林は野蛮人の労を助け、旁々(かたがた)水馬の苦痛を切縮めて遣りたい思いで、銃を取り出し、荒れ狂う水馬に向かい、その最も急所と聞く耳の後部を狙って射ると、狙い違わず、水馬は水の中で転々として死んだ。

 此の辺りの蛮民は全く銃器を知らないでは無いが、此の手際に驚いて、暫(しば)し手を引き舟を留め、喝采かと思われる叫び声を発するばかりであったが、その間に本船の背後に居た小舟から、五六の兵士が艀(ボート)を下ろし、水馬の死骸に漕ぎ寄って、背に打ち込んだ槍の縄を取り、本船の方に引いて来ようとした。

 蛮民はそうと見て我が獲物を無措無措(むざむざ)他人に奪われるのを恐れ、更に鯨波(ときのこえ)を揚げ、兵隊の乗った艀(ボート)を目掛けて襲って来る勢いなので、茂林は此の辺りで蛮民から憎まれては一大事と思い、自分も又艀(ボート)に乗って漕ぎ寄せ、直ちに小刀を出して、兵士等の引いている縄を切ると、蛮民等は非常に喜び、獲物の周囲に集まって、又も縄を取り、引き去ろうとする。

 茂林はその間に本船に漕ぎ帰り、老兵名澤に命じて、蛮民の獲物を奪おうとした兵士を引き出だし、叱り附けてその脊(せな)を五棒づつ鞭打たせたので、是からは兵士等は茂林を恐れること甚だしく、規律も大いに厳重に成ったと言う。

 是から又幾里《十数km》かを進んで、本船は愈々(いよいよ)ガゼル河とナイル河の合っする、
 「ノエル」
と云う所に達した。芽蘭(ゲラン)夫人の一行はガゼル河を遡り、「レク」に上陸して、それから先は陸行する定めであったので、ここで本船と分かれる事と成った。今まで本船に引かれて居た帆船へと乗り換えると、本船の船長はじめ水兵等は非常に別れを惜しみ、数発の大砲を発して一行の無事を祈った。

 この様な異境に於いて、引かれる本船に分かれるのは、親を失うことよりも更に悲しく、一同は殆ど心細さに耐えられなかったけれど、前から決めてあった事なので、勇気を鼓舞して進もうとしたが、抑(そもそ)もガゼルの河と云うのは、ナイル河から西南に分かれた支流にして、河とは云えど水の流れは遅く沼の様で、殆ど何所(どちら)に流れているのか、判別する事は出来なかった。

 或所は数里(十数km)に広がって浅い沼と為り、或所は又集まって淵の形を形成していたが、水の流れが遅いので、底に雑草が生茂り、船の櫂などに搦(から)まって、進むのが困難なことは並大抵で無かった。しかしながら是も覚悟の上の事なので、少しも恐れず船を進めて行くと、僅かに二時間ばかりで、水が甚だ浅くなり、葦(よし)その他の水草が水の表面に高く延び出て、見渡す限り果てが無いかと思われる浅瀬になり、船は進みも退きも出来ない所に乗り入れた。



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