巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou64

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第六十四回 猿の悪さ

 漸く小し広い所に出て、猿も追って来なかったので、ヤレ嬉しやと打ち寛いで歩くうち、私は先に見た小川の岸に来た。
 水が澄んでいて水晶の様で、底にある小石は苔で青みがかっていて、細い魚の一つ二つがその苔を啄(ついば)む様子まで歴々(ありあり)と見え、流れは早からず遅からず、深さも僅(わず)かに肩の邊まで来くるくらいに違いない。

 アア何と美しい川だ。なんと美しい水だ。若し此の流れに入って泳いだなら、如何ほどか冷ややかになる事だろう。幾日幾月、赤道真近かなアフリカの天日に晒され、砂地の塵埃(じんあい)《ちりやほこり》に汚れた肌を、此の水に洗い去ろう。如何ほどか身が清くなることか。

 実に生まれ替ったほど、好い心地がせらるるに違いないと、思い初めたら我慢も出来なくなり、思わず知らず衣類を脱ごうとしたが、少し待て。余りに端下無い振る舞いをして、若し人に見られてはと、更に四辺を見廻したが、素より人の有ろう筈は無い。鳥一つ鳴かない程静かなので、先ず安心して衣を脱いだ。

 許より女の身として、全裸体(まるはだか)で川に入るのは穏やかでは無い。若し仏国や英国の海又は川ならば、泳ぐにも浴びるにも、必ず白い単衣の浴衣を纏(まと)って、人に肌を見られない様に、浴衣のまま水に入るのが女の常では有るけれど、今は浴衣の用意も無い。浴衣無くても誰にも見られる筈も無いので、脱いだ衣は河の傍にある木の枝に掛け、全裸体のままで水の中に身を入れると、今までの熱さは一時に消え、行く水は膚(はだ)に滑らかで、身は更に水より軽く、其の心持は何とも言いようが無かった。

 或いは泳ぎ或いは潜り、口を漱(すす)ぎ頭を洗らい、或いは手で水を叩き、飛び散る珠を雨霰(あめあられ)の様に顔に受けなどして、気楽気ままに戯れていると、身は忽ち俗臭い人間を脱して、水の神の仲間に入ったかと疑われ、上に向き下に向き、高く浮かび低く沈みなどして、時が過ぎるのをも忘れて居た。

 真に世界文明国中の女性にして、我が身の外に此の水に膚を晒した者が誰かあるだろうか。女皇と云えどもこの水に浸かった自慢は出来ないだろうと、楽しさに酔い、嬉しさに心も鎔(とろ)け、悠々として世の中に暑さ苦しさなどと云う事が有ることを忘れ、心の中に有った彼の病も、跡形も無く癒えたので、最早水を離れて人間に復(かえ)っても惜しくは無いと、ゆっくりと川を出て、身の雫を拭う為め、ハンカチを取り出そうと、先に衣を掛けて置いた彼の樹の下に行くと、不思議も不思議、懸けて置いた衣類が影さえ留めて居なかった。

 ハッと思って唯だ顔の色が青くなるのを覚えた。
 アア衣類は如何してしまったのだろう。何処に行ってしまったのだろう。若しや余りに身を冷やした為め、目の働きまで狂い、現在鼻先に有る物さえ、見分ける事が出来ない事と成ってしまったのでは無いだろうかと、我が目をさえ疑って、木の枝を撫で探ったが、無い物が手に接(さわ)る筈も無い。

 若しや泳ぐ間に知らず知らず川下へ流されて、先に入った所と別な所に上がってしまったかと、確かに四辺を見廻わしたが、樹の様、草の様、一々に見覚えがある。衣類を解いた其の場所に相違は無い。原住民が来て、我が知らない間に窃(ぬす)んで行ったか、風の為め川に落ちて流れてしまったか、否、否、原住民も来ては居ないし風も吹いては居ない。

 唯だ天日に蒸発して、消えてしまったと云うより外は、考えられなかった。如何に不思議な事ばかり多いアフリカの内地とは云え、衣類が蒸発する事は未だ聞いた事が無いと、四方を隈無く眺め廻した。
 其の怪しさの心よりも、猶更に辛いのは差し当っての当惑である。此のまま此処に居る訳にも行かない。如何したら好いだろうか。何としても「ゼリパ」まで帰って行かなければならない。

 林を出るのだけでも一哩(マイル)《1.8Km》の上は有る。林を過ぎて平地に出れば、アア平地に出れば人目を遮る樹さえも無く、かえって見る人の眼は有る。それも黒人達ならば、膚(はだへ)の儘(まま)を見られてもまだ我慢しよう。

 此の辺にはハルツームから来た人も有る。アラビヤの商人も有る。象牙を買い集めるヨーロッパの人さえも無い訳では無い。既に日も暮れるのに近く、昼間の暑さも大方は無くなったので、夕涼みを求めて戸外(おもて)に出る人も有るだろう。何としても裸体のままでは帰る事は出来ない。

 アア婦人として恥ずかしい目に逢った人は多いけれど、この様に恥ずかしい場合に出逢った人は何所に居るだろうか。汚れた衣を着るのさえも恥ずかしく、少し流行に後れた縞柄を着てさえ、人前に出て行かれないのが女の常なのに、何の衣も無い此の様(さま)では、如何して一歩でさえも立ち去ることが出来ようかと、今は衣服が消え失せた怪しさよりも、唯だ身の振り方に途方に暮れた。

 此のままここに立ちすくんで居る外は無いかと思うと、全身の血が、嚇(くわっ)と顔に込上げて循環を止め、頭の毛も逆立って居るかと疑われるばかりで、悲しいと我と知らず叫び立てると、意外にもどこかで嘲(あざけ)り笑う様な声が有った。

 聞き覚えが無い声では無いので、ハッと思って其の方を見ると、十間《18m》ほど離れた梢に、衣類を打ち振り打ち振って、是れが欲しいだろうと見せびらかす様に、此方(こちら)に示すのは、無礼な最前の猿の群れである。

 私が水中に戯れて居た間に、彼等は音も無く川添いの樹を伝って来て、枝に懸けた衣類を盗んだ者と見える。



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