ningaikyou7
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2020.4.18
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第七回 アフリカ遠征の準備(1)
鳥尾医学士が打ち悄(しお)れて一方の戸口から出て去ると、入れ違いに他方の入り口から、彼の平洲文学士と茂林画学士が入って来た。
二人は実に鳥尾医学士が推量した通り、承諾の返事をする為に来た者である。その顔の晴れ渡った様子、非常に莞爾(にこやか)なことからも総ては知られる。
夫人は簡単に、
「何う決しました。」
二人は同音に、
「無論行く事に決しました。」
茂林画学士は更に語を足し、
「ナニも貴女が一週間の猶予を下さらなくても、私はアノ翌朝に決心が定まったのです。貴女に誘われれば、世界の果てまでも行くと云う事に。」
平洲文学士も一歩も譲らず、
「イヤ私は貴女が説明している中に既に決したのです。」
と云い、二人同じく打ち笑うは、真に此の旅行を恋の道行きとでも思っている様だ。
その勇気は感心なれど、芽蘭(ゲラン)夫人は実に死を決意しての覚悟なので、非常に真面目に、
「イエそうまで熱心に言って下さるのは有難い次第ですが、全くの所、容易ならぬ旅行ですので、最も真面目に考えて頂かなければ成りません。既に申しました通り、飽くまでも私を男と見做(みな)し、男女の間に発する様な、言葉や素振りは決して発しては成りません。そうしなければ此の旅行は途中で神聖を失う恐れが有ります。
併(しか)し是だけ云えば良くお分かりで有りましょうから、是から旅行の用意などを相談しましょう。」
茂林は浮き立った様子で、
「ハイ、善は急げです。至急に用意を初め、今から二週間以内に出発する事と致しましょう。」
「イヤ一週間以内としましょう。」
夫人は二人の性急なのに笑みを催し、
「この様な大遠征の用意が、何うして一週間や二週間で出来ましょう。私は既に六ケ月以前から用意を初めて居りますけれど、未だ充分に整いません。」
「ダッテ別に難しい用意は有りません。第一に知己友人に暇を告げ第二に鞄(かばん)を詰め、第三に旅費の金子を懐中に入れれば、それで何時でも立てましょう。」
夫人は誡(いまし)める口調で、
「アア貴方は何うしても物見遊山の様に心得てお出でなさる。第一に生きて還らぬ覚悟が肝心ですから、暇(いとま)乞いよりも先ず遺言状を作り、自分の死後の財産の処分方を認(したた)め、そうして確かな公証人に、その遺言状を托して置かなければ成りません。アフリカ遠征に出る人の暇乞いは総て此の通りです。」
ゾッと死風が身を襲うほど、気味悪い言い聞かせではあるが、二人は臆する色も無く、
「成る程そうだ。それまでは気が附かなかった。」
と平気で述べるのみ。
「第二に鞄(かばん)にしても、一つや二つでは足りません。品物を買い入れる事の出来ない土地ですから、入用の品は悉(ことごと)く持って行かなければ成りません。」
「でも夫人、鉄道や馬車の無い土地ですから、荷物は成るたけ軽便に致しましょう。」
「荷物が軽便に出来る様なら、誰も鬼域遠征を困難とは思いません。充分一家を構える丈の品物を持って行くのですから、丁度引っ越しの様な者です。パリの市中で引っ越しても、荷物の運搬に随分手数が掛かりましょう。道の無い土地へ何万哩(マイル)も引っ越すのですから。」
「でもその荷物は何うして!」
「ハイ馬車や汽車の代わりに、人夫や駱駝などなどを雇って運ばせるのです。それだから鬼域遠征には、少なくも百人、多くは五、六百人の供を連れなければ、荷物だけでも運び切れず、又その供人の食物から携えて行かなければなりません。第三には又金子の事ですが、鬼域の内地では、金貨や紙幣などを知らない原住民と取引するのですから、南京玉や針金や、反物や総て原住民の欲しがる品物を持って行き、此の国で銭を使う様に使うのです。
是だけでも非常に沢山の荷物となります。サア此の通りの訳ですから買い物は余程沢山有るのです。」
と言って主な品を数え掛け、更に、
「イヤ是れ等の買い物をするには、誰かを会計主任に定めなければなりません。」
茂林先ず進み、
「総てその様な任務は貴女から命令して頂きましょう。この遠征は三人とも同じ男の積りでも、貴女を大将軍と立てて置きます。何事も大将軍のお眼鏡で。」
夫人は静かに、
「ではその大将軍と云う役目を引き受けましょう。それなら平洲さん、貴方が会計主任として、一切の買い物を監督して頂きましょう。」
「宜しい」
「大抵の品物は成るべく埃及(エジプト)国まで行き、同国の海路(カイロ)府で買い調(ととの)える事にし、唯だ同府に無い者だけ、此の国で買い調えて、我々の出発より先に同府まで送り出だして置く事に。」
「心得ました。」
茂林は又進めて、
「では埃及(エジプト)の方から行くのですか。私はアルジェリアから行くかと思い、既に其の地理など調べて居ましたが。」
「ハイ、埃及(エジプト)からヌビア国へ入り込むのです。」
「ヌビアとは面白い。ヌビア国から何所にへ行きます。」
「その先は分かりません。」
「益々以て面白い。私は総て、行く先が前以て分からない旅行を好みます。」
「その代り命の有無も前以て分かりませんよ。」
「それは重々有難い。パリの共同墓地では、葬られた所で、頭や足が閊(つか)え、窮屈で堪(たま)るまいと、ずっと前から私は心配して居ます。広々とした野蛮国の内地へ埋められれば、死んでも清々するだろうと思います。」
と手を拍(う)たない許りに喜ぶのは、狂気の沙汰にも近いと、云わなければならない。
此の間にも平洲は頻(しき)りに買い物を書付けて居たが、
「では茂林を葬る棺までも買い調えて行きましょうか。」
「その様な冗談を云う場合では有りません。貴方は武器の類を記しましたか。」
「イエ未だ。」
「余り綺麗な武器は却(かえ)って酋長などが目を付け、その武器が欲しい為に、持ち主を虐殺する例が幾等も有ります。成る丈け丈夫で目立たないのを選ぶ様に。そうして通例の銃の外に、長剣(さーべる)や短銃なども沢山要ります。その外酋長等へ贈(つか)い物にする武器も入り用です。」
「それでは全(ま)るで輜重兵(しちょうへい)のような者です。」
「勿論です。それだから遠征隊と云うのです。供人を合わせて幾百人隊伍を組み、武器を以て或場合には戦争もしなければならず、又或場合には降参して、賞金同様の賄賂を振り撒(ま)いて通らなければなりません。
その用意でお二人とも出発まで、成る可く遠足と遠乗りの稽古を成さい。更に亜拉比(アラビア)語も多少お覚え成さる様に。何でも亜拉比語を覚えて置けば、アフリカの何所へ行っても、その土地の言葉を覚えるのに早いと云いますから。」
と夫人の訓令を綿密に聞き取るうち、初めて候補者の一人である、彼の医学士が見えないのに気付いて、茂林は、
「鳥尾医学士は大層遅いが。」
「イヤあの方は同行が出来ないと、先刻断りに来られました。」
茂林は喜んで、
「此れは有難い。本当に気の利いた男だよ。」
「エ、貴方は一人欠けて残念とは思いませんか。」
茂「何で残念に思いましょう。」
平「競争者が一人減り、それだけ三分の一の見込みが、二分の一に増して来た訳ですもの。」
夫人は笑うまいと欲するが、笑わない訳にはいかなかった。
「成る程そう云うお考えですか。それでも医者を引き連れなければ、此の旅行は出来ません。」
茂「ナニ医者などは要りません。」
平「勿論です。吾々は今まで病気に罹(か)かった事は無いのです。」
と危険を構わず言い張るのは、二分の一が再び三分の一と減り行くのを恐れての一心に違いない。
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