巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou71

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.6.22

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        第七十一回 寺森医師の分析

 己が心に苦しみが有っても、己れ自ら其の苦しみの何たるかを知らない事が有る。之を心の有耶無耶と云う。有耶無耶として只だ苦しいからである。
 芽蘭夫人が此の日頃何と無く気が勝れず、萬事衰えがちに沈んで行く有様であるが、これは全く此の有耶無耶である。

 夫人は自ずから、自分の心を知らないのでは無い。若し明白に考えて見れば、真に寺森医師の云う様に、連れて来た平洲、茂林の中を愛せずに、パリに残して来た鳥尾医学士を愛している為、自ずから物事が面白くないのだ。見るもの聞くもの総て鬱(ふさ)ぎ込む種となって、身が衰えて行く者なのだろう。

 しかしながら夫人は、そこまで自分の心を分析して考えもしていない。若し分析したならば、全く自分の心が、鳥尾医学士に属していると分かって来るのが恐ろしいからだ。大任を身に負って、萬里遠征の途(みち)に在る身が、其の任の未だ半ばにも達して居ないのに、心を一人に寄せる様な事が有って済む事だろうか。

 我が心の中を考え、恋の悪魔を気に掛けて、くよくよして済まして良いのだろうかと、この様に思うことが切実なので、我と我が心を考えもせず、その何たるやをも知らずして、終に病いを醸しだして今に至り、不意に寺森医師から我が心を分析する様な、明白な言葉を聞いた事なので、その一語一句が、満更我が胸に応えないわけでは無く、何うやら胸の中に眠っていた一物が有って、それを呼び覚まされるとも云う様な心地がするので、争いもせず、無言のままに聞いていた。

 医師は自分の考えが当を得ていることを確信して、
「ハイ、愛と云う者は、心の中で育てれば育てるほど勢いが盛んになります。一旦兆(きざ)した時に、自分で是が愛だと承知し、其の事ばかりを思い詰めれば、思いが即ち愛の食物と為りますから、愛は益々育ちますが、成るたけ思わない様に勤めて居ると、乳に離れた小児の様に、段々萎凋(しな)びて絶え果てます。

 幸いに貴女の愛は未だ充分に育って居ません。貴女が本来嗜(たしな)みの深いお気質で、その上外に気が紛れる事も多い為め、その愛に充分の食物を与えなかったのです。それでも物淋しい長の旅行で、愛には心の傾き易い場合ですから、愛が段々に貴女の心を蚕食し、貴女の肉体をまで喰い減らそうと始めたのが、丁度あのハルツームに居た頃でした。」
と真に分析表の様に説明(ときあ)かし、更に一大発明を紹介しようとする気取りで、言葉へ異様に重みを附け、

 「所がその時に当たり、貴女の心中に一大騒ぎを起こしたと云うのは、同所で夫芽蘭(ゲラン)男爵が蛮地の中に、まだ生きて居ると分かった一条です。さては我が身は夫ある身を以って、平洲と云い、茂林と云う、普通の友人とは少し譯の違う男を連れて旅行するばかりか、心をば更にその外の一人へ、仮初にも動かしたと有っては、生きて居る夫に何うして逢えるだろうか。

 夫に逢った暁に、平洲、茂林は何うなるか、特に鳥尾医学士が何うなるか。自分は更に何うなるかと、様々の難題が一時に起こり、イヤサ、こう一々貴女が精密にお考えに成った訳でも無いでしょうが、一人の心には余る程の沢山の心配が混み合って、区別も附かず、思案も附かず、唯だ有耶無耶と身を苦しめるのが全く今の場合でしょう。

 私は医師として患者の容体には、最も気を揉むべき役目ですから、先日来、充分注意して是だけの事を見出しました。真にこう云う有様ならば、貴女は無言で過ごすだけ、益々容体が重くなります、貴女の身に若しもの事が有れば、此の一行は何うなります。蛮地に捕らわれて、苦しんで居る芽蘭男爵を誰が救います。

 貴女は実に一切の心配を捨て、身体と心との健康を図らなければ成りません。好く考えれば、少しも貴女の行いに、自らお気を揉む様な落ち度などは有りません。数年以前に、夫男爵は死んだものとその筋から報告せられ、世間一般もその報告を信じ、貴女は全く法律上で寡婦と為った身の上です。

 たとえ今時分、第二の夫を持って居たとしても、誰に恥じる所も無く、芽蘭男爵が生きて返ったとしても、咎める事は出来ません。況(ま)してや貴女は男爵の死んだ場所を見届けて、その墓へ参った上で無ければ気が済まないと云い、女はさて置き、男子でさえ出来難い、此の大冒険の遠征を企てたのですもの、貞女とすれば絶世の貞女、烈女とすれば絶世の烈女です。少しも自分で心配する所は有りません。」
と云い、更に言葉の及ぶ丈け諭し慰めると、夫人も少し心が弛んでか、

 「そうまで私の容体を心配して下さる貴方の御親切は、深く心に印しました。」
と礼を述べ、非常に静かに我が天幕(テント)に退いた。
 遥か離れた木の蔭で月を愛でつ、雑話する平洲、茂森の両人は、月よりも夫人に気を取られる同士なので、此の様を洩れも無く見終わった。

 「何だ寺森医師は、夫人に何を多弁(しゃべっ)て居たのだろう。」
 「サア何だか声は聞こえないけれど、彼奴の熱心な様子と云い、夫人の何だか恥ずかしい様な有様と云い、何だか変だぜ。」
 「変だ、変だ。」
 「彼奴、吾々と夫人との間に、一種の約束が有って、此の旅行を初めた事を知って居るのだろうか。」

 「それは知って居る。彼奴は仲々目の利く男だから、疾(とっ)くに見抜いたに違い無い。」
 「それを知って居れば、まさか我々へ断わり無しに、夫人へ懸想する程の悪人でもあるまいが。」
 「イヤ善人でも懸想はするよ。」
と思わず知らず言葉の端に嫉妬の気味を現すのは、止むを得ない所だろうか。平洲は思い出した風で、

 「イヤ彼の日頃の振る舞いが、仲々懸想などして居る人の様子では無い。黒奴の背の垢を擦(こす)り取って、白人の垢よりも黒いのは、何の分子だなどと、余り女には好かれない様な事を平気で遣って居る。」
 「それもそうだ。そう云えば彼れよりも君の方が矢張り恋の敵だ。僕も彼より君を敵と思うよ。」

 「しかし僕には毛ほども夫人が心を傾けた様子は無い。」
 「僕に対してもパリを出た時と一様に公平だ。」
 「困るネエ。本当にパリで相談した通り、早く決闘して一人に成れば好かった。」

 「僕もそう思う。しかし今でも随分決闘は出来る筈だ。」
 「イヤいけない。今決闘すれば、夫人の心では、殺された方を憐れみ、生き残った方を憎むから、勝つても決して夫人を我が物にする事は出来ない。」
 「そうだ。数千里一緒に旅行したその挙句に殺したかと思えば、決闘とは云え憎むべきだ。それこそ夫人を寺森の方へ振り向ける結果になるかも知れない。」

 「では何うしても辛抱して、此のまま旅行の終わるまで、夫人に随行する外は無い、そうだその外に仕方は無い。」
と云い、双方共殆ど運を天に任せた様な事を云い替わし、鬱々として銘々の天幕(テント)に入ったが、此の翌朝は早朝に音楽隊を先に推し立て、以前から人喰い人種と噂される「ニヤム、ニヤム」の領分に入り込んだ。



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