巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou76

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第七十六回 あの夫人は君主の妻か

 北から来た一行が、南を指して帰るとは、道理に合わない事柄なので、魔雲坐王が鋭く問掛ける事は尤(もっと)もである。此の王は多少道理を考える心力が有って、他の野蛮人の様に辻褄の合わない話に欺かれる事は無い事を知るべきだ。

 茂林は宛(あたか)も此の問を待ち受けていたように、
 「我等は実に北から来たとは云え。同じ道を通るのは面白みが無いので、南に行って海に出で、船に乗って帰る事を欲するのだ。」
 王は首を傾け、「海、海とな、先に来たしシユ氏もその海と云う事を話ていたが、我は納得が行かず、その様な物を見た事は無い。南に行って、却って北へ還(かえ)られるとは、全体如何なる道筋なのだ。その海と云う物を説明されよ。」

 陸より外に見た事の無い人に向かい、海の事を理解させる事は、非常に難しい事なので、これには茂林も撥(はた)と困り、暫し良い諭(たとえ)を考えていると、平洲は窃(ひそか)に注意して、
 「天を、天を」
と云う。

 茂林は忽(たちま)ち頷(うなづ)き、
 「王よ、先ず天を見よ。天は此の地の尽きる所へ垂れて、地と接するように見えるでは無いか。」
 「そうだ。天と地は南の果ても北の果ても、繋(つな)がって居る様に見える。」

 「人が若(も)し南の果てに行き、天に攀(よじのぼ)る力があれば、天を伝って自ずから北へ還(かえ)られのではないか。」
 「成るほどそうだ。しかし人には、あの滑(なべ)っこく見える天を、攀(よじのぼ)る力は無いだろう。」
 「そうだ、天を攀(よじのぼ)る力は無いけれど、海を滑り行く力は有る。王よ、天の形を何と思うか。」

 「勿論圓(まる)いと思う。」
 「圓(まる)い天に包まれる柄には、地の形も又園(まる)いのではないか。」
 「そうだ、地は圓(まる)いけれども平扁(ひらた)い。」

 「そうだ、地と天との間に水の溜まりがある。その水は圓い天と圓い地に挟まれて有るので、地のぐるりを丸く輪の様に囲んでいるのだ。」
 王は暫(しばら)く黙想して、
 「成るほど」
と云い、又怪しんで、

 「天と地との間にあるその輪の様な水は、何所から出るのだ。」
 「川から流れ出るのだ。川は東西南北様々に向いて流れるけれど、皆天の際に行き、天に支(つか)へてその先へ行く事が出来ないので、横に広がり、地のグルリに満つるのだ。」

 王は手を打ち、
 「成る程成る程、我はシユ氏に問うたが、シユ氏は唯だ図を書いて示したのみ。この様に納得の行く様には説き明かさなかった。」
と云って、非常に喜ぶ様子だったが、又考え直して、

 「しかし、多くの川が絶え間無く流れて行けば、海と云う水溜まりは、次第に広く成り、終に四方八方から地を浸(した)して来るのではないか。」
 誠に野蛮人に似合わない、本質的な問いである。

 「王よ、試みに朽ちた木の一端を、水の中に浸して見よ。水はその木に浸潤(にじ)んで、上の方まで吸い上げられるではないか。」
 「その通りだ、水は朽ち木に浸潤(しみこ)んで上る事がある。しかし是は朽ち木だけでは無い。」

 「確かにそうだ。海と云う水溜まりの水は、宛(あたか)も朽ち木に浸み込む様に、天にも浸み込み、地にも浸み込むのだ。天に浸み込む物は終に雨と為って天から落ち、地に浸み込む水は、泉と為って地から出て、こうして雨も泉も又川に流れ入って海に帰る。故に海と云う水溜まりは、多少水の増減はあるものの、涸(かれ)る事は無く、溢(あふ)れる事は無い。」

 誠に幼い説明なれど、野蛮人の幼稚な心には、この様に云ってこそ、初めて納得させる事ができるのだ。王は嬉しそうに、
 「余は海を知った。海を理解した。」
と叫んだが、更に声を平静に戻して、

 「御身等が南に出るのは、唯だ海に達するだけの為か。」
と問う。
 茂林はここで、芽蘭(ゲラン)男爵の事を打ち明かし、実は男爵を尋れる目的をも兼ねて居る事を云って、男爵が若しここに捕らわれて居ないか、或いはここを通らなかったか。通ったならば何方の方角を指して行ったのか等の事を、問い度くも思ったけれど、王が、若し何かの都合で、

 「否」
と答えたならば、此の答を伝え聞いた満廷の黒人等、王の意に背いて叱られる恐ろしさに、他日一行から問はれても、皆な王と同じく「否」と答える事に為るに違いない。そうなっては自ら探偵の道を塞ぐに均しいので、何(ど)うしても改めて王へ秘密の面会を請い、総ての従者などを退けた席で、窃(ひそ)かに問うのが一番だと思い、即ちその下準備として、

 「その通りです、別に更に目的が有ります。しかしながら多勢の聞く所では言えません。更(あらた)めて秘密の面会を請うた上で、打ち明かそうと思います。秘密の面会は何時に許されますか。」

 王は天と海との説明を聞いてから、大いに尊敬の念を生じたので、敢えて拒もうともせず、
 「明日の夕涼みに。」
と答えた。

 このようのいして王は、再び果物に口を濡(潤)し、その一を茂林に与え、暫くは無言で過ごしたが、その間にも王の眼は、偸(ぬす)み見る様に芽蘭夫夫人に注いだ。夫人の美しさに非常に心を奪われた様だ。しかしながら王と云う尊厳に対し、流石に端下(はした)無くは問うことが出来なかった。何か話の伝手を以って、それと無く夫人の身の上を聞いたい者と、空しく心を悩ませている様子に見えたが、漸く思い附いて、

 「御身の次に座す二人の男は何者なのだ。」
と問う。是れは男から席順に、段々問うて女の身に及ぼそうとする方略である。野蛮人に稀な程、駆け引きに巧みだと云える。

 茂「我が兄弟にして、一人はシユ氏の様に良く物事を知り、一人は病を医するに妙を得ている。」
 王はここに於いて恍惚として芽蘭夫人を眺めたが、夫人の美しさには何所と無く神聖な所がある。殆ど拝むようで、近づき難い所があるので、王はまだ直接には問う事が出来ない。次の帆浦女に指差し、

 「彼の老いた女は何者だ。」
 先程からそれと無く眼を以って王に媚(こび)て居た帆浦女は、通訳者である名澤の口から「老いたる」の一語が出るや、嚇(かわっ)と怒って、顔を赤くし、声も日頃の荒々しさにに輪を掛けて、

 「何ですと、私を老いた女とは、エエ私の年さえ知らない癖に、老いたとは余り失礼だ。」
とて殆ど泣き出す許(ばか)りである。寺森医師は気を利かせ、帆浦女を取り鎮めて、
 「ナニ此の土地で「老いた」と云うのは尊敬の言葉です。決して年の老いたと云う意味では無く、アノ敬うべき女と云うのに当たるのです。」

 帆浦女は忽(たちま)ち安心し、前より一層の媚を目に浮かべて謝する様に王を見たが、王はその媚に感ぜず、徐(おもむろ)に真の目的を言い出し、
 「アノ美しい婦人は、きっと君主(茂林を指す)の妻であろうな。」
と幾分の心配を帯びて問うた。



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