ningaikyou8
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2020.4.19
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第八回 アフリカ遠征の準備(2)
学士三人の中、鳥尾医学士が一人行かない事となれば、芽蘭(ゲラン)夫人の婿になる人は、茂林画学士か平洲文学士の中なので、両人とも鳥尾医学士の抜けたことを非常に喜び、競争者一人減っては、それだけ勝利の見込みが多くなった訳だと思い、両人とも決して病気などには罹らないから、医師を伴って行くには及ばないと真面目になって言い張るので、芽蘭夫人は言い返し、
「貴方方は実に蛮地の気候を知らないのです。日頃何れほど健康でも、鬼域と云われるアフリカの内地へ踏み込み、病気に罹(かか)らない人は一人も有りません。併し先ず仮に貴方がたの言葉に従い、一同病気には罹らない者と見做しましょう。それにしても私は貴方がたの外に、誰か一緒に行って呉れる人が無くては成らないと思います。」
茂「それは何故です。」
「貴方がたは余り年が若過ぎます。私にしても若い身の上。サア若い女と若い男と、外に見張って呉れる人無しに、長い旅行が出来ましょうか。」
「しかし鳥尾医学士と云えども年は私と同年です。彼が一緒に行ったからと言って、矢張り若い男と女の旅行でしょう。」
「イヤ違います。アノ方は年よりも心が真面目で、血気盛んな貴方がたの様に、若気の過ちは決して無い人です。アノ方が一緒ならば、世間でも此の旅行を信用します。」
平洲は聞いて居られなくなり、恨めしそうに、
「それは夫人、情け無い仰(おっしゃ)り方です。成る程我々両人は、アノ医学士とは違い、長く交際の社会に揉まれた丈、冗談も云えば巫戯(ふざ)けもする。上部(うわべ)から見れば本当の子供ですけれども、心の底まで浮戯(ふざ)けては居ないのです。口も軽く気も軽く、如何ほど困難な場合をも、冗談の様に通り抜けるのがパリっ子の持前です。此の気質を以てアフリカの内地へ入り込めば、互いに気も引き立って、病気などにも罹りません。
ハイ今までの旅行者が、病気になるのは余り陰気過ぎて鬱(ふさ)ぎ込むからの事です。私は大砂漠を渡るにも、芝居見物に行く積りで、浮き立って渡ります。尤(もっと)も私一人なら直ぐに鬱(ふさ)ぎ込んで仕舞うかもしれませんが、茂林君の様なパリっ子が一緒なら、私が鬱ぎ相になれば、茂林君が引き立て、茂林君が鬱(ふさ)げば、私が引き立てます。御覧なさい、我々は決して病気などに罹る事なく、寧ろ野蛮人の中へパリ風を吹かせて帰りますから。」
と真にパリっ子の気概をその儘(まま)に、非常に気散じを説き立てたが、夫人の心は更に動かず、
「イヤ貴方がたが、その気の軽いのは何よりも結構ですが、いずれにしても私は、今一人ズッと重々しい老成の道連れが欲しいと思います。」
最早や言い争うのも無益なので、
茂「では重々しい老成の人を捜しましょう。」
「そうしてその人は、医者で無くては了(いけ)ませんよ。」
「余り年が行き過ぎては、吾々と一緒にアフリカを旅行する事が出来ず、肝心の医者殿が吾々より先に病気になります。」
「そうですね、年齢は四十位、取った所で四十五歳を越さない程の人ならば。」
「それは何よりも難題です。丁度医者ならば繁盛する真っ盛りの年頃ですから、充分医術を心得て居る人なら決して吾々と同行しません。」
「同行をするなら藪医者に決まって居ます。」
平洲は深い溜息を洩らし、
「野蛮人に食い殺されたなら世界中の評判と為り、新聞にも出れば事に由っては、芝居にまで仕組まれますが、医者の匙加減が間違って、アフリカの内地で藪医者の匙に罹って死んだと有っては、芝居の筋書きにも成りません。」
と愚痴を滴(こぼ)すのも、快闊なるパリ人の天真爛漫の証拠に違いない。
ややあって茂林画学士は手を打って、
「有ります。有ります。夫人、屈強の医者が有ります。アノ医者が若しーーー。」
と云い掛け、忽(たちま)ち言葉を閉じたので、夫人は怪しみ、
「若し何うしたと云うのです。」
「イヤ若し賭け事が好きでさえ無ければ、今頃は立派な流行医者と為って居る所ですが、只もう賭け事の勝負が好きで、朝から晩まで倶楽部へのみ入り込んで居るのです。医道には充分熟達して居ますけれど、真の賭事道楽と云う者で、勝負の為なら何の様な大胆な事柄でも試みます。何うでしょう夫人。貴女が其の悪い癖を咎めさえ成さらなければ、その医者を連れて行きますが。」
「ハイ私は構いません。唯だ貴方が途中でその人に旅費まで巻上げられる様な事が有ってはーーーー。」
「イヤそれは大丈夫です。不思議にも私は、その医者には必ず勝つ秘伝を知って居ますから。」
「ではその医者を、鳥尾医学士の代わりに連れて行くと致しましょう。」
平洲は傍らより、
「医者と云う役目は鳥尾の代理でも、候補者と云う権利は決して鳥尾の代理では無いでしょうネ。」
「エ?」
「イヤサ、その医者を吾々同様に、貴女の婿と云う候補者へ加えては成りませんよ。」
夫人は微笑(ほほえ)み、
「大丈夫です。私は勝負事は大嫌いですから。」
是で相談は略(ほぼ)終わったので、明夜又来て会すことを約し、両学士は一様に分かれを告げ、共々に夫人の家を出て行ったが、今まで夫人の前に居たからこそ、アフリカ旅行を物の数とも思わなかったけれど、夫人の許を離れると、此の計画が真に命賭けの仕事であることが、必々(ひしひし)と心に浸みこんで来て、二人とも首を垂れ、深く何事をか考えつつ無言で唯だ歩むのみだった。
素より二人とも愚人では無い。無学でも無い。冗談をこそ云え、アフリカ内地の恐るべき事を深く知っている。
今までの探険者が、誰は何所で死し、彼は如何なる目に逢った等、悉く新聞その他の報道で読み知っているため、心に其の事どもを思い出し、窃(ひそか)に考え込んでいるのに違いない。
しかしながら二人は芽蘭夫人の愛に酔い、夫人の為とあらば一命も惜しくないとまで思い詰める同士なので、それ等の恐ろしい考えが浮かんだのも少しの間だけで、やがて茂林は顔を上げ平洲の肩に手を置いて、
「オイ平洲」
平「オオ茂林君、何だ。」
呼び答える有様は、何やら非常に重大な事柄を、言い出そうとしているようだ。
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