巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou80

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.7.1

a:188 t:1 y:0

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

         第八十回 帆浦女の告白

 夫人の夫、芽蘭男爵が此の土地へ来て居ないことは、魔雲坐王の言葉で分かった。そうだとすれば男爵は道を東の方に取り、王の弟鐵荊(てつばら)の支配地に入り込んだ者と思われる。

 事に由っては此の地で、芽蘭男爵に逢うことが出来るかも知れないと、幾分かの楽しみを心の中に蓄えて居た一同は、そうと知って少し失望の想いをしない訳には行かなかった。それで此の後如何(どれ)ほど行ったら男爵の現在の居所を突き留める事ができるだろうか。

 殆ど果てしの分からない旅行と為ったので、何と無く心細くも思わるれが、だからと言って一日後れては、一日だけ男爵に逢う時期を遅くすることになるので、これ以上此の土地に留まるべきでは無い。直ちに東南の方に向かい鐵荊(てつばら)の支配地を目指して出発しようと、心は既に定まったが、ここに一つの困難は、魔雲坐王が一同を是から先に進むことを許さない一事である。

 王の領地を旅行するのに王の許しを得ずに出発すれば、直ちに追い掛けられて捕らえられ、王の怒りで如何なる処分を受けることになるか分からない。僅かな同勢を以って、アフリカ国中で最も恐るべき、魔雲坐王に抵抗することは思いも寄らないので、夫人を初め平洲、茂林は何度と無く王の許しを得ようとしたが、王は深く夫人を見初めた為か、なかなかその許しを与えない。

 此の後は一日置きに必ず此の小屋へ尋ねて来て、二時間三時間ほど、夫人の顔に見惚れては帰って行くばかり。之を何よりの楽しみとしているようだ。
 一同はフランスを出発する初めに於いて、途中様々な困難に逢うだろうことは予期していた所で、毒蛇猛獣に苦しめられることは勿論、或いは恐るべき熱病に罹り、或いは食物飲料の欠乏する為め、命を捨てる場合も有るだろうことは、充分覚悟の上であるが、野蛮国王が芽蘭夫人を見初めた為め、一行を引き留める事があるだろうとは実に思いも寄らなかった。

 此の旅はもともと途中で日を費やすような旅では無い。芽蘭男爵がまだ生きて旅行をしていると有れば、此の一行が一日後(おく)れるのは一日男爵に遠ざかることである。或いは男爵がどこかに捕らわれて居るならば、一日の相違で救うことが出来なくなることになるかも知れない。

 それとも病に罹り、一日の介抱如何で、生死の分かれる有様であるかも知れない。実に途中の一日は、後に至っては、百日にも百年にも当たるほど大切なので、一同は心を落ち着ける事が出来ない。何とか此の難所を切り抜けなければと頭をのみ悩まして居た。

 この様な中にあっても、兵士人夫等は王宮の様子を覗いたり、聞いたりして来て、その注進する所に由れば、王は何故か頻りに武器を修理などして、戦争の準備を為しつつ有ると云い、又今までとは様子が代わり、後宮に在る数百の妻を愛する様子はなく、少しの事にも腹を立てて女共にまで荒々しく当たって、余ほど気に染まない事があるようだなどと云う。

 是れは多分、恋に心が燥(いら)立って、何事も気に障る為に違いなく、事に由っては軍を起こし、此の一同を攻め亡ぼし、暴力を以って芽蘭夫人を我物にしようとする心なのかも知れない。この様な事は此のアフリカの内地には有りがちの事であると、一同は益々途方に暮れ、唯だ相談ばかりに費やして居たが、禍は常に思わない邊から出るとか言う。

 実に一同の為めにとって、取り返し難(がた)い程の禍いは、彼の王から起こらずして、却(かえ)って一行の中に在る帆浦女から起こって来た。ここに先ず帆浦女が自ら手帳に書き附けた、秘密の一節から記して行こう。

 その文下の通り。
 「我が心を誰に語ろう。誰にも語り難い秘密なので、手帳に写して幾度も読み返し、考え直した方が良い。手帳は実にこの様に記す私の相談相手である。他日人に盗み読まれる心配は有るが、生涯肌身を離さないので安心である。

 不幸にして私が死する場合には、人知れず焼き捨てられるだろう。そうだ誰れに恥じ誰に遠慮する事が有るだろうか。思うままを存分に書き附けて見よう。他日若し此の事が思う通りに行き、彼人(あのひと)を夫とし、寝物語にも此の手帳を読んで聞かせたならば、彼人(あのひと)に我が心の底も分かり、如何(どれ)ほどか睦まじく成って行くことか。

 手帳ほど嬉しく頼もしいものは無い。
 魔雲坐王は今日も一同の許へ尋ねて来たが、是れは私の顔を、余所ながらに眺めようとの心である事は明らかである。平洲も茂林も寺森も、王は芽蘭夫人の顔をばかり眺めようとすると云って心配しているが、誠に目の見えない人達である。

 王は野蛮国の王なれど、心の優しさは文明国の紳士にも優る所がある。不躾(ぶしつ)けに思う女の顔を眺める無作法はせずに、心にも無い夫人の顔を眺めると見せ掛け、実は私の顔をばかり偸(ぬす)み見ようとしている事は、確かに私の胸に応(こた)えている。

 王の目は夫人に注ぎ、王の心は私に注いで居る。この様に有りのままの秘密を記して、芽蘭夫人と恋の敵となる事は心に済まないけれど、王と私との間には、早や以心伝心の譬え通り、心と心を読み合っている。この様な事は愛の無い他人の目には見えない。

 この様に分かった者を、何時まで此のままに捨てて置かれようか。王は私を愛する為、一行を引き留めて出発をさせず、是れは私が一行に難儀を掛ける様な者なので、私自ら身を王に捧げ、一行を出発させるのが女の道である。

 この様にすれば王も喜び、一行も無事に芽蘭男爵の行方を探る事ができるだろう。そうだ明日とも云わず、私の身を王に捧げよう。身を捧げて人の為を計ることは、仁者の所為と聞くので、後々まで私の献身的勇気とやらを、褒め立てる人も有るに違いない。

 ナニそうまで褒められては却って痛み入る訳である。
 今私の身を王に捧げることは、それほど献身の勇気では無い。ここに記すのも辛いことではあるけれど、実はーーー。王が私を愛するほど私も王を、イヤイヤ此のあとは記すのを止めよう。幾等他人の見ない手帳とは云え、打ち明け過ぎるのは端下無い。

 だからと言って、献身的勇気などと身に余る名誉を得るのも心苦しい。そうだ止むを得ないので記して置こう。全くこの身も王を愛し始めたのだ。王に身を捧げるのは、唯だ我が愛する紳士を夫に定める迄の事である。文明国の人が私を褒め過ぎない事こそ願わしい。



次(第八十一回)へ

a:188 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花