巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou83

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第八十三回 吾の妻になれ

 悉(ことごと)く衣類を裂かれて、丸裸体(まるはだか)と為った帆浦女の身は、汗と脂と流れる血で、殆ど鰻の様に辷(すべ)り、群がり掛かる黒女等の手にも、取り押える事が出来ないほどになったので、右に抜け左に滑(のめ)り、漸く戸口に転(ころが)り出る事が出来た。

 ここまで来ては、最早や彼女の大得意な戦場なので、唯その世界第一の健脚をもって逃げさえすれば好い状況で、帆浦女は一散に走り出した。後から二百人ほどが、囂々(ごうごう)と声を上げながら追って来るとは云え、背低く丸々と肥太った黒女の足で、どうして帆浦女に追い付く事が出来ようか。

 身は疲れ果てて居たけれど、必死の場合には疲れをも感じない。曾(かつ)て猿軍に襲われた時は、身を金布(かなきん)《無地の木綿の布》に巻隠して逃げたけれど、今はその支度さえする暇は無く、それに夜目で見る人が無いのを幸いに、傍目も振らず一行の小屋の外まで逃げて来ることが出来た。

 ここは過日来、魔雲坐王の様子が異様なのを探り知り、益々夜を警(いまし)めて戸締りなど厳重にし、帆浦女が忍び出したとも気附かず、外から入る事が出来ない様にして有るので、彼女は背後からまだガヤガヤと追って来る黒女等の声を聞き、前は入り口の戸に塞がれ、板鋏と為って悶掻(もが)いて居ると、中では騒々しい声を聞き附け、老兵名澤が番兵と共に戸を開き、鰻の様な有様の保浦女を中に入れた。

 彼女は恐ろしさからか面目無さからか、名澤に一言の訳も云わず、転がる様に我が室に入り、そのまま夜の明けるまで出て来なかったのは無理も無い事と云える。
 しかしながら名澤は、暫(しばら)くの後、此の所へ追って来た、数多の黒女から事の次第を聞き、何も彼も知ることとなって、非常に驚いて先ず黒女等を宥(なだ)めて帰し、後で次第を茂林と平洲とに具申すると、平洲が腹を抱えて笑うのに引き返え、茂林は拳を握って立腹し、

 「平洲君、我々一行の婦人が、これほどまでの侮辱に逢うとは、実に情け無いでは無いか。」
 「仕方が無い。当人の自業自得だから。」
 「イヤサ、その当人の愚かさが情け無いと云うのだ。帆浦女は仲々判断も良い女で、婦人には珍しい程の気質だのに、情け無い事には、自分の身に関する事柄と云うと、直ぐに判断を過って、気違い染みた事ばかり仕出かしてしまう。僕はもう我慢が出来ない。」

 「出来ないからと云って、王宮へ怒って行くのか。」
 「何で王宮へ怒って行かれる者か。王の方に少しも悪い所は無い。全く帆浦女の不心得だから、充分に帆浦女を処分するのサ。」

 「イヤ今更処分した所で、取返しは附かない。なまじ騒ぎ立てては、故々(わざわざ)恥じを晒す様な者だから仕方が無い。此のまま秘密に伏せて仕舞うサ。」
と云い、平洲は直ぐに老兵名澤に向かい、
 「此の事を成るべく他言しない様にせよ。」
と云って退けたが、茂林の心はまだ治まらず、

 「勿論僕としても、強いて帆浦女の恥を吹聴する心は無いが、君先ず此の失策の為に、我々一行に蒙る事になる損害を考えて見給え。」
 「別に損害と云う程の者は無いだろう。」
 「そうではない、今まで魔雲坐王が、芽蘭夫人に見惚(みと)れて居るのは争われない所だが、唯だ幸いには、王は白人を尊(敬)い、殆ど天女を拝む様に芽蘭夫人を拝んで居たのだ。

 之は王ばかりでは無い。本来芽蘭夫人の容貌は、猛獣をも懐(なつ)けるほど気高く生まれ附いて居るから、到る所の黒人に慕われ敬(うやま)われる。けれどもその気高い丈に、誰もが芽蘭夫人を妻にしようなどと云う了見は起こさず、流石に魔雲坐王すら、唯だ無言で夫人を見る許りでは無いか。

 到底人間が手を出すのさえ恐れ多い、天女の様に思って居るのだ。そんな所を帆浦女がアノ様な事を仕た為に、王の眼中に我々白人一般の威光が、何れほど減ったか計り知れない。さては白人の女でも女に替りは無く、思っていたよりも随分黒人の妻と為るのを望む者と見える。

 シテ見ればあの天女の様な夫人と云えども、己の妻に成るだろうとこの様に思うのは必然だ。今ですら吾々は魔雲坐王に引き留められ、前進する事が出来無くて困って居るのに、此の上に吾々の威光が落ち、其の上に芽蘭夫人を王の妻に所望せられる様な事にでも成れば、如何とも仕方がないだろう。

 是でも損害で無いと云うのか。僕は今まで白人の威光を頼み、王が幾等夫人を愛したとしても、恐れる所は無いと心の底に幾分の安心を蓄えて居たが、今はその安心も消えて仕舞った。見給え、遠からず王は芽蘭夫人に向かって、必ず難題を言い込む事に成るからよ。エ君、それは全く帆浦女の過ちから出た結果だよ。」

と非常に悔しそうに説き立てるのを、平洲も大いに感心し、
 「成るほどそうだ。そう云う所まで僕は気が附かなっかった。併し今更ら取り返しは附かないから、唯だ明朝帆浦女に向かい、是から以後、一応吾々へ相談して、許しを得た上で無ければ、決して自分の思う所を行わないと云う約束を結ばせよう。」

と云い、是で相談が決したので、その翌朝と為って、彼女を呼び出し、下の旨を言い渡すと、帆浦女としても、自分の肌が、爪の痕だらけと為ったのを見ては、少し後悔せざるをえず、更に

 「イエ此の間違いは、全く私が土地の言葉を充分に使うことが出来なかったからで、王に意が通じ無かったから起こったのです。言葉が良く通じさえすれば、何の間違いも無く、王は私の掌の中で丸めこまれる様に成る所でした。」
と、罪を全く言葉の不充分さに帰したけれども、何様面目無い次第なので、毎(いつ)もの様に強情を張る事は出来なかった。

 「此の後は日々の常務の外、決して相談なしには我意を通しません。」
と確かな約束を結び、是で一段の治まりは附いたが、さて治まらないのは、茂林の気遣っている夫人の身の上で、此の又翌日の朝になって、果たして王から堂々たる使いを以って、芽蘭夫人へ向け、
 「婚礼して我が妻に成れ。」
との儀を申し入れて来た。



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