巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou99

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.7.21

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        第九十九回 ゲラン男爵の書き置き

 アア芽蘭(ゲラン)男爵、芽蘭男爵、男爵は曾(かつ)て此の矮(いぶ)せき小屋に宿ったのか。宿って自らこの様な書を認め、此の壁に貼付(はりつけ)たのか。何事を認めて何が為に貼り附けたのか。今は何処、其の後は如何したのだ。唯だ一枚の紙面ではあるが、之を見て平洲の胸には千万無量の疑惑が起こった。

 しかしながらここは考え惑うべき時では無い。猶予すれば窓に燃え移った猛火に、此の足腰が立たない老人と共に焼き殺さてしまう。
 それで急いで老人を小脇に抱(いだ)き、壁の紙を剝ぎ取って衣嚢《ポケット》に突き込み、其の小屋を飛び出ると、一面に広がった火は右に左に行く手を塞ぎ、最早や老人を投げ捨てなければ、逃れ去る方法は無いかと思われたが、此の時一方から「平洲君」と声掛けて、此の所へ飛び込んで来たのは茂林である。

 「この様な所にマゴマゴして居ては焼け死ぬが。」
と云いながら彼は平洲と老人とを引き摺って、漸(ようや)く火の気の少し遠い所に救い出し、
 「僕は魔雲坐王の兵が、余り甚だしい暴行をするから、王に談じてそれを制止する為め、名澤に兵を引き連れさせて此の村を馳せ廻り、ヤッとの事で大方は取鎮めた。

 王及び其の兵にも引き揚げさせたから、ここまで帰った所ろ、火の中に君の姿が見えたから飛び込んだノサ。」
 平「そうか。それは有難いが、名澤は何所へ行った。此の老人を暫く彼に保管させて置き度いが。」

 「名澤は今僕が芽蘭夫人の許へ退かせた。全体此の老黒奴は何だ。この様な者を擒にしたとて仕方が有るまい。」
 平「イヤサ、芽蘭男爵の身の上を尋ねるのに付き、此の老人が多少の手掛かりと為るに相違無い。僕は図らずも男爵の手掛かりを得たよ。」
と云い、衣嚢(かくし)の中から彼の紙を取り出し、之を見出した次第を言葉忙(せわ)しく語り聞かすと、茂林も驚き喜ぶ事と言ったら並大抵で無かった。

 「何事を認めてあるか、早く夫人に読ませよう。夫人より先に我々が読むのは宜しく無い。」
と云い、二人は元の原に出て、芽蘭夫人が通訳亜利、其の他と共に控えて居る所に馳せて行くと、名澤が部下と共に其の四方を護って居たので、彼れに件(くだん)の老黒奴を任せ、二人は夫人の前に出て、事の次第を語りつつ、彼の紙面を出して渡すと、夫人は嬉しくてか悲しくてか、殆ど言語を発する事が出来ず、無言の儘(まま)に受け取って一目見たが、情に耐えられないのか、

 「エエ、是は全く夫の筆跡です。」
と云って顔に当て、又暫くして、
 「私は胸が迫って読む事も出来ません。何うかお二人で読み聞かせて下さい。」
と云って差し出した。

 千里万里艱難を嘗め尽くして尋ねて来た果てで、図らずも夫のこの様な書に逢っては胸が塞がるのも道理である。それも普通の場合と違い、世にも恐ろしい無惨な様を見、深く心を傷め、神経が非常に昂(たかぶ)って居る際に、人間以外の怪物かと思われる蛮人の中から、此の書を得て来たのかと思うと、夫の千辛万苦した有様も思い遣られ、自ずから涙が先立つに違いない。

 平洲は読もうとして彼と彼方にまだ燃え残る火事の明りに翳(かざ)すと、文字は細かにして読み難い所も多かった。更に夫人の傍に立つ帆浦女から蝋燭を請い受けて、下の様に照らして読んだ。

 此の書が果たして文字を解し得る文明国人の手に落ちるか否かは知らない。しかしながらアフリカ探険の業は地学と共に益々進む事なので、早晩に此の人外の境へも、余と同様に分け入って来る人も有るに違ない。余は切に此の書がその時まで存して、その様な人の目に触れる事を願う。

 たとえその様な人の目に触れる事が無くても、今の余の身の上としては、まだ命の有る中に書記して残す外は無い。
 余が此の土地に入る事が出来てから幾週幾月を経た。余は如何ほど年老いてしまったか。

 今は是れ、余が此の土地に入り込んだ千八百七十二年の中には相違無いが、其の中頃なのか末の方なのか、病み耄(ほう)けた身で夫れすらも覚えが無い。年中夏の様な熱い土地で、四季の別さえ無いので、寒暖で考えることも出来ない。僅かに枕から首を擡(もた)げ、外の様子を眺めると、空の色、樹の色、地から立ち昇る霧の様、何うやら雨季を過ぎた後に似ている。

 此の邊には一年に雨季と晴季の別がある。晴季は天気のみ続き、雨季は通例七月頃から向こう四ケ月ほど続く。アア余は記憶している。雨季の始まる前に余の身体はまだ病に伏せては居なかった事を。だとすれば余は百二十日の上も病に臥し、昏々として人事をも弁(わきま)えずに寝て居たのか。

 介抱する人も無く、此の蛮地で良くも寿命が続いた事だ。余は四カ月以上を経て漸く蘇生したことになるのではないか。



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