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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           三十九  「何(ど)の様な夢を」

 妻ある男が、他の女に向かって「貴方と夫婦になっていれば好かったのに」とはそもそも何のつもりだろう。よしや冗談としたところで、冗談を言う場合ではない。場合ではないのにこれを言うのは確かに心に一物があるのだ。

 何にしても自分の妻に愛想を尽(つ)かしていることも分かる。いくらか他へ心が移っていることも分かる。澄子は腸(はらわた)が千切れるような思いでこの言葉を立ち聞きした。他の事なら思い返す道もあろうが、夫冽が自分を妻としたことを、後悔している様子がこうまで明々白々にわかっては、何処に思い直す余地があるだろう。

 これきりで二度と夫の顔は見ない、自分の顔を見られもしないと固く心に誓ってしまった。アアこれが見納め聞き納めだ。せめて夫の心に、この身に対する幾らかの愛情がまだ残っていることを見届けたいと思ったのはおぞましさの極みであった。踏む足も定まらずに、澄子は家に帰り、自分の部屋を目指して大広間も通り抜けた。

 ダンス会場からはまだ客一同のどよめく声が聞こえている。夫も品子もきっとその中に混じっているだろう。大広間にも幾らか客は残っているけれど、澄子が青い顔をして、よろめいて通るのに気の付く人はいない。この家の主婦人でありながら全く誰からも見捨てられたと同様だ。

 自分の部屋の入り口まで行ったが、又引き返して、育児室に入った。ここには我が子良彦がばあやに抱かれて寝ているのだ。ばあやは時ならぬ主婦人の入来に驚いて起き直ったが、ただならない澄子の顔色に、
 「貴方様はまあどうなされました。」

 「イイエ、唯疲れたのですよ。どうか貴方、ちょっと家扶の部屋まで行っておくれ。そして、子爵に、今夜私は疲れて再び客間に出ることが出来ないから、失礼してお先に退きますとの事を申し上げるように言っておくれ。」

 ばあやはかしこまって立って行き、言われた通りにした。やがて家扶から、冽に上の意を伝えた時、冽は口の中で、
 「決まっている。少し客があれば直ぐ疲れたなどと言って引き込みたがる。」
とつぶやいた。

 何で澄子が引き込みたがるかは少しも知らない。明朝、これを知ったならどれほどか驚くだろう。驚いたとてその時にはもう間に合うことではない。

 ばあやが立った後で、澄子はベッドのそばに膝を突いて、良彦の寝ている白い枕に頬を当てた。子の顔さえ見納めである。今宵限り母の無い子となるのも知らず、どのような夢を見ているのか。息も乱れずやすやすと眠っている。

 澄子はその顔を見ると共に胸いっぱいに塞(ふさ)がったけれど、泣き出しはしない。そのように心が弱くてはこの決心は果たせないと、厳しく心を引き締めているのだ。
 けれど、流石に、何度かその心が底の底から揺らぎ始めた。その度に自ら取り直した。

 よしや、寝顔に向かってなりとも、言い聞かせておきたいことは数々有るけれど、一言でも自分の口から言葉を出しては、言葉と共に破れるように自ら泣き出すのは必然であるから、固く口をつぐんでいる。そして、ただ、じっと良彦の顔を見るのみである。その心の中はどのようであろうか。

 ここで泣いては、良彦も目を覚まし、ばあやも帰って来て騒ぎとなる。悟られもする。それではとてもこの決心を果たすことは出来ない。泣かぬは泣くに数倍勝とはこのような時を言うのだろう。

 揺らぐ心を取り直して、イヤイヤ、この子のためにも死ななければならない。生きていれば母のことを悪く言う噂が耳にも入るだろう。死んでしまえば、まさか、亡き後まで邪魔者のように言う人も無いだろうから、後々まで母の好い所だけを覚えているだろう。

 もう、物心を覚える頃なので、子として母が悪し様に言われるのを聞くのも辛いだろう。母として子に悪い陰言ばかりを聞かれるのも本意ではない。死ぬのは今のうちであると、強いて道理の無いところにまで、道理を付け、永い別れのキスを寝顔の頬にした。

 そのうちにばあやが帰って来ては面倒と雄雄しくも立ち上がった。後ろ髪を引かれる思いも振り払うほどの心で、ここを出て、逃げ込むように自分の部屋に入ってしまった。



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