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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           四十  「神の目からは同罪」

 自分で内から部屋の戸を締め切って、澄子は声を限りに泣いた。今まで耐えていた悲しさが一時に発したのである。
 けれどまだ泣いてばかりはいられない。自分が亡き後のことも考えなければならない。そのうちでも、特に心にかかるのは良彦の後々である。実のところは良彦のことの外は、心にかかることは無いと言っても好い。

 何もかも唯、良彦の気づかはしさに集まってしまった。と言ってどのように手当てを残して置いたら良いか、という工夫も付かない。よくよく大慈大悲の神に祈り、永く良彦を加護したまわるように、願って置くだけだ。

 やがて熱心に祈り始めた。幾ら祈ったところで、これで気が済んだと言う時の来るはずはないが、それでもいくらか気が落ち着き、サアいよいよ死のうと言う時と成った。

 勿論、もうこの世が嫌になった身の上だから、命が惜しいなどと言う、未練の気持ちは露ほども無い。一刻も早くこの世を逃れたいのであるけれど、少しためらうところが出来た。それは幼い時から身にも心にも滲みこんでいる神の御心ということである。今も今、神に祈った身で自殺してよいであろうか。   

 自分が自分の身を殺すのに誰に気兼ねする事もないとは、深く人道を理解しない者の言うことで、誠の道を踏む者から見れば、自分の身を殺すのも、他人の身を殺すのも、罪と言うことは同じである。自分も創造主がお作りになった生き物なら、他人も創造主がお作りになった生き物である。どちらも創造主の大事な創造物を打ち壊すので、神の目からは同罪である。

 澄子は人に優った信心者と言うのではないが、幼いときから、このような説教以外は聞いた事もない境遇に育った無垢な女である。神の教えに背くということが何よりも辛い。自ら手を下して自分の身を殺すことも出来ない。

 創造主の創造物を打ち壊すような罪深いことをして、何で神がこの身の願いを聞き届けてくれるだろう。罰を下しこそすれ、良彦の身にご加護を下される筈がない。

 死ぬことは出来ない。死ぬことは出来ない。まだ生きてこの上の苦しみを受けなければならない。と言ってそれも出来ないことだ。この上は死人と同じように、何処(どこ)成りと浮き世の果てに身を隠し、この世に澄子という者の無くなったのと同じ事にしてしまうしか方法がない。

 夫冽が捜したとしても、分からないことは勿論のこと、誰に尋ねたとしても分からないのは勿論の事、誰にも尋ねようが無いように。
 そうだ、そうだ、全く隠れてしまうだけだ。何処にそのような人里離れた浮き世の果てが有るかは知らないが、ちょっと樫林郷の父の元に帰り、父に好く相談すれば、必ず然るべき隠れ場所を教えてくれ、誰が尋ねて来ても分からないようにしてくれるに違いない。

 ここにようやく考えが決まった。子供のような考えでは有るが、実は澄子自身がまだ、子供である。人生の何たるかさえ、まだ深く知らない。がしかし、この考えは二度と決して動くものではない。
隠れていれば、そのうちには、神が我が心を憐れみ、必ず、病を下して、自然に死なして下さるだろう。そうだ、これ程辛い思いをのみした身が永く生きて居られる筈はない。遠からず、自然に死ぬまでの間を、死人同様に送るのだ。

 それにしても、今夜の中にこの屋敷を忍び出なければならない。死ぬならばともかく、生きて忍び出るとなっては、良彦も連れて行きたい。連れて行って我が手で育てたなら、世の人の悪口なども耳に入らず、必ず清い心の男子となるであろう。

 イヤイヤ、良彦は瀬水子爵家の嫡男として生まれた身、この家に置けば、後々世の尊敬を得る名誉ある人となれる。それを私が私情の為連れて行き、人の知らないところで育てるのは、その身に備わっている爵位や名誉を奪うのと同じこと、母の身として子供の後々を妨げることは出来ない。

 真実、母らしく考え定め、良彦を連れずに行くと決心したのは健気(けなげ)である。たとえば、自分がこの家に踏みとどまったにしても、良彦は数週間のうちに英国へ送られるはず、自分は良彦と一緒に住むことは出来ない。それを思うと、何もかも、成り行きに任せておくほかは無い。余り充分なことを望んで、思うことを仕損じては成らない場合だ。

 もう、この上考えることは無いと、そこそこに旅の着物を取り出して、準備をした。思い出すとただ悲しくなるばかりだから、何事も思わずに忙しく立ち去ろうと、一通り部屋の中を、片付けたが、それにしても夫冽へ暇乞(いとまご)いの一書だけは残しておかなければ成らないと、机に向かって、筆を取り上げた。こうなるとまた涙が出るけれど、心を引き締めて、したためたその文句は、

 「我が君と貴方様をお呼びするのも、今宵限りとなり、私こと、身のふつつかをも思わないで、今まで貴方様の恩に甘えて来ましたこと、相済まない次第にて、返す返すも恥ずかしく思うばかりです。今宵という今宵は、貴方様が私との結婚を後悔あそばしている事がしみじみと分かりましたので、この手紙を御暇(おいとま)としてこの家を立ち去ろうと思います。」

 「私の死する以外には、結婚を取り消して貴方様の御身を自由にする道はありませんので、出来ることならその様にいたしたく存じますが、神の召したまうまでは、それも出来かねますので、やむなく死に最も近い道を求め、今から浮世の何人にも私という者があることを見られても、聞かれても、思われもしないように深く身を隠そうと思います。これを限りにして、貴方様のお耳に私のことの入るのは、嬉しい訃音の届く時だとお思いください。」

 「とにかく、再び私の卑しい姿をもって貴方様のお目を汚す事が無いようにしますゆえ、最早、品子様と御別れあそばすには及びませんので、この二つはご安心下さるようお願い申しあげます。」

 「書面の上に、貴方様のお嫌いな涙を落とすことも憚られますので、ここで筆を留めようと思います。この上のことは、涙なしには書くことは出来ません。今宵限り夫ならぬ瀬水へ、今宵限り妻ならぬ澄子より、忘れられるのを願いつつ荒々かしこ」



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