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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

   四十七  「お言葉の通りです」

 冽は繰り返して置手紙を読み、その意味が益々分かるにしたがって、段々嘆きが深くなった。たとえ一時、心が品子の方に移りかけていたとは言え、澄子を愛する情が尽きたと言う訳では無い。

 余り無事で趣きが変わらないため、少し疲れが出てきて、其れにつまらない腹立ちや、つまらない行き掛かりなどが加わり、あたかも月にむら雲が掛かったように、愛の光が覆われていた。

 そうだ、光は覆われていても、愛の大根は心の底に、隠れたままで宿っていた。今この手紙や、電報で、澄子がどれほど辛い思いで家出をしたかという事が分かってみると、自分の振る舞いの悪かったことがひしひしと身にこたえ、やるせない後悔のうちに、澄子を哀れむ情、愛する情が押し寄せる潮のように湧いて出た。
 「エエ、何もかもこの冽が悪かった。」
と言い、果ては男泣きに泣いた。

 けれど、必ずしも澄子が死んだと決まったわけではない、
 「不幸にして」澄子もその汽車に乗り合わせたとは、電報で分かるけれど、怪我とも死んだとも言ってはいない。」
 「幸いにして」夫人は無事なりと言う意味にはどうしても取れないけれど、まさか死んだものではないだろう。何にしても、直ぐその場に出張しなければならない。

 出張の前に母をも品子をも起こして一室に集まった。母御は気も転倒したような冽の様子を見て、かつはその電報を読み聞かされて「又この家に不名誉なことが出来たのか」
と嘆いた。澄子の安否より世間体気に掛かるのである。

 品子はどのように感じただろう。畢竟自分の策略からこのようになったのは、言わなくても分かっているが、目の当たりに冽の男泣きに泣く様子を見て、あんまり罪深いことをしたと、せめては露ほどの後悔の念が出ただろうか。顔つきだけは殊勝げに、悲しそうにしているが、眼の底には自分の勝利を喜ぶような光が輝いている。

 瀬水子爵夫人という尊い名目を、多年ねたみ、うらやんだ主婦人の地位とが自分の手に落ちてくるのは遠くないと、全くの所、早や嬉しさがこみ上げて来るのだ。

 けれど、無駄な評議に時を費やしてはおれない、馬車の用意のできるのを待ちかねる様にして冽は飛び乗った。そして、駅に走らせた。
 「セダイ」と言えば「ゼノア(ジェノバ)」へ行く途中だ。「ゼノア」は英国へ帰る道である。これだけで澄子が何のためにかの夜汽車に乗ったのかも推量できる。

 もし、澄子が何の怪我もせずにいるならば、衝突のために途中でさえぎり止められたのが、かえって幸いであったかもしれないと、冽は一時このように思ったが、イヤイヤ全くの無事と言うことは無い。それにしても一刻も早く現場に着きたい。その様子を見届けたい。

 全速力で走る汽車も、冽にとってはまだのろい気がする。汽車の中でも、電報と手紙とを読み返すほかは何事もすることが出来なかった。やがて汽車は「セダイ」に着いた。着くと又恐ろしさが先に立って、或いは澄子は死んだかも知れないと、しばらく降りることも出来なかった。彼の神経は一方ならず乱れている。

 そのうちに降りて、プラットホームに立つと、多くの男女が集まってはいたが、いずれも死人、けが人を引き取り、または介抱のためと見え、憂いを帯びて、非常に静かである。誰に澄子のことを聞いて好いのか分からない。

 しばらく辺りを見回しているところに、二人の紳士が進んで来た。一人はドクター・シン、一人は警察長官である。ドクター・シンは一礼して単に、
 「電報をご覧に成ったでしょうね。」
と聞いた。その様子の重々しいのを見ただけで、大概のことは察せられる。冽の心には恐れが今までに倍して起こった。

 「澄子はどうしました。何処に居ますか。」
と冽はまた見回した。
 長官;「イヤ、しばらくお待ちください。」
 ドクターも同じく、
 「何分にも大惨状で、この通りの混雑ですから、しばらくお待ちくださらないと。」

 「待つことは待ちますが、先ず私の妻はどうしました、無事ですか。無事ではないのですか。其れを先にお聞かせください。」
 ドクターと長官は、異様に顔を見合わせた。貴方からお返事なさいと互いに譲り合う様子である。

 ドクターは紛らわせるように、
 「瀬水夫人は、供をも連れず、全くお一人のようでしたが、どう言う訳で」
と問いかけた。お一人と言い切らずに、お一人のようでしたと言う語にて既にこの世の人でないことを、微妙に言い表しているけれど、冽はその様な細かい所には気が付かない。

 「実に不幸な間違いです、少しの間違いで、あの汽車に乗ったのですが、実は私も貴方の電報に接するまで妻の外出を知らなかったのです。それにしても妻はどうなりました。」

 ドクターと長官はとは再び迷惑そうに顔と顔を見合わせたが、今度は冽も合点が行った。彼は全身を震わせて、
 「死んだのですか。死んだのですか。ドクター、ドクター、死にはしないとただ一言聞かせてください。」

 その一言がドクターの口からは聞こえてこない。身を埋めるほどの絶望が、冽の胸に湧き起こった。ドクターと長官の顔は益々厳かになり、堅く唇を閉じてしまった。
 「エ、ドクター、澄子はこの世に居ないのですか。」

 ドクターは仕方なさそうに、
 「悲しいかな、そのお言葉の通りです。」
 冽はつかみつぶさんばかりに自分の顔に手を当てて、
 「エエ、澄子が死にましたか。どうして、どうして。まだ、全くの言きれでは無いでしょう。」
 長官;「イヤ、あんまりお気の毒で、何とも申し上げようがありません。」

 実に冽の悲しみは説明のしようが無い。ひとつには自分の行いに後悔するところが在るから、なおさら切に情けなく思うのである。ドクターは慰める心か、
 「イヤ、天の定めた命数は如何ともいたし方有りません。天国から来て天国に帰るのです。」

 冽はただ泣くのみである。



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