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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

   五十七 「私は子供が好きですよ」

 瀬水冽が郷里瀬水城へ帰って来てから、早や少なくない月日が経った、彼が帰って来た頃の様子は、今思っても気の毒だ。母のない我が子良彦の手を引いて、首を垂れて我が家に歩み入った。ただこの子の顔だけにどこか亡き澄子に似たところが有ると言って、良彦を離すことが出来なかった。

 実に冽が亡き澄子を惜しみ悲しんだ事は一通り、二通りではない。生きている中こそふつつかなところや、不行き届きの所などが目について小言を言ったけれど、いよいよ死んだとなってみると、そのような所は総て忘れ、ただ目に残るのは美しい、愛らしい姿と、清い正直な気の小さな可憐な様子ばかりだ。

 あのような女が二人とこの世に在ることではない。それを一時でも妻にしたこの身はこの上ない幸せ者で、その幸せを離れた辛さ、悲しさは、他人に推量出来ない所だ。とこの様にまで思うに従い、又思い出すのは、自分も澄子に辛く当たった仕打ちである。

 決して、澄子を憎んだのではない。一時たりとも一刻たりとも澄子を可愛いと思う気持ちは緩まなかったが、何となく妙な隔たりが出来たのだ。何でそのような隔たりが出来たのか、今考えると、ただ後悔の念が先に立つばかりで、少しも理解が出来ない。もっと大事にしてやれば良かったのに、エエ、もっといたわってやれば良かったのにと、この様なことばかり思うけれど、所謂後悔先に立たずだ。

 晴れやかな気質であった冽も、今は陰気な人となった。この数年の間に、めっきり年を取ったように見える。笑顔とては、良彦に向かって発するだけだ。全く自分の心一切を、澄子の形見に見える良彦に集めてしまったらしい。親密であった品子に向かってさえも、元のようなうち解けた様子は見えない。

 こんな様子がもし生涯続いたならば、かえって幸いであっただろう。けれど、人間の心には案外弱いところがある。変わるまいと思っても変わらせる事情が出来る。変わるような時が来る。

 ある人の言葉に女は阿片のようなものだというのがある。一度も妻を持たずして、生涯を独身で送る人は随分あるが、一度妻を持った人は、その妻を失って、二度目の妻を迎えずに居ることは難しいそうだ。一度阿片を飲むと、飲まずに居られなくなるのと、原理上は同じだと見える。

 良彦が自分の傍(そば)に居る間はそうでもなかったが、良彦が学校に行くようになってから、冽はそろそろ「寂しい」と言う感じが起こった。その寂しさを一番好く慰めるのは、外でもない品子である。

 品子の振る舞いはくだくだしく記すまでもない。既に読者が皆好く知っているはずである。冽の心が、良彦に集まっていると見る間は、良彦を可愛がるのに全力を注ぎ、冽の心が少し寂びしくなったと見てからは、又冽の方に全力を注ぎ始めた。

 それでも冽は品子に向かって、前ほどに慣れ親しむ様子はなく、最早や、その心の中に愛と言う念が消えてしまったのかと、思われる程であったけれど、品子は失望するような女ではない。

 澄子の生きている時でさえ、危ういまでに冽の心を動かすことが出来たのに、澄子という邪魔者が亡びて、勝利が明らかに自分の手に帰している今となり、戦利品だけが我が手に入らないと言うはずはないと固く信じている。

 それでも何か際だった節目が無くては、むやみに戦利品をつかみ取る訳にはいかない。どんな勇者でも、真に太平無事の世には、功を立てるには名目がない。

 ところが、丁度その節目が自然に出来てきた。というのは、近郷のこれもやはり貴族の当主だが、品子を見初めたとやらで、縁談を申し込んで来た。品子にとってはこの上もない有り難い申し出だろう、と思われたのに、品子はきっぱりと是を断った。

 前から品子の縁遠いのを心配していた冽の母御は、ひどく残念に思い、
 「あんまり不心得ではないか。」
と諭したところ、品子はよどみもなく、
 「あんな若い男子は嫌いです。」
と言った。
 「若いと言っても、冽より二つか、三つ年が上だのに」
と言われて、初めて驚き、

 「若いとは年のことではないのです、経験が若いと言うのです。」
と例の雄弁で言いつくろった。
 「そのような事を言ったら、子の有る家へ、後妻にしか行けなくなりますよ。」
 「私は子供が好きです。良彦などは我が子の様に思っています。後妻でも何でも、自分が好きな人ならば」
と是でも分かりませんかと、言わないばかりに言った。

 母御が品子を冽の嫁にしたいのは、澄子が来る前からの望みで、一頃は暗に品子へすすめるほどにし向けていた。今この言葉を聞いては、品子が今以て冽の妻になるつもりで居ることも分かった。

 イヤ、そのことはこの言葉を聞かなくても十分、分かっているが。ここで夫婦にした方が、家のため、冽のため、品子のため、また自分のためと三方四方の為を思い、捨てもおかずに骨を折る気になった。


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