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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

     五十九 「義務としても品子に」

 我がために品子のような美人が生涯を捨てる気になっているかと思えば、そこは男の弱点だ。うれしくないことは無い。心に、死んだ澄子の面影が満ちているようでも、又品子の面影を入れるだけの空地が出来る。

 特にこれより四、五日の間、事に付け、物に触れては、母御から非常に的確な謎が出る。その謎を聞いていると、第一は瀬水家というこの家の為に後妻を娶るのが本来だ。第二は母を安心させなければならない。第三には自分のためにも、イヤ、自分のためなどはどうでも好いけれど、三方、四方皆後妻を決める必要を訴えているように思われる。実際誰も訴えてはいないけれど、訴えているような気のするのが早やそれだけ心が傾いている証拠だ。

 なお、念のためにと言って、自分でも何日間かつくづく考えてみた。考えるに従ってイタリアにいた時のことなども思い出す。あの頃は実に自分と品子とは親密であった。このような女を妻にしたらなどと仮に想像してみたことも無いではない。多少はその意を、言葉の端にほのめかして、品子の耳に入れたことも有る。

 突き詰めれば澄子の家出も、一つはその辺の有様を嫉妬して出たことであるから、品子自身は澄子の後に自分が座るように思い、それを当てにして外の縁談を断り、心待ちに待っているのは、無理は無い。もっともだ。とこうまで思うようになった。

 実際、もしあの時に澄子の家出も無く、恐ろしい鉄道の事変なども無かったら、品子と冽の間はどれほど深まっていたか知れない。けれど、幸か不幸か、アノ様な事件があったため、冽の心は根本から覆ったと言う状態で、いままで、愛も恋も全く忘れた状態になっていたのだ。

 今とて昔のような愛や恋は冽の心に湧いては出ない。アノ頃とは全くの別人で、陰気な沈着な、そして口数も少ないある点においては、ほとんど木石のような心になりかけている。だから、今後妻のことを考えるにしても、必ずしも愛の情けのと言うのではない。それとは少し違ったところがある。

 どっちかと言えば、義務の心と言うのが似つかわしい。あれほどまで、品子と親密にし、品子に生涯を捨てるまでの心を起こさせて置いて、今更知らない顔で居て澄むだろうか、それではどうも男の一分が立たない様に思われる。

 そうだ、義務としても品子に正式の縁談だけは申しこんで見なければならない。その上で、品子が応ずると断ると自由である。応ずれば妻とするし、応じなければ今まで通り他人で居るまでのこと。
とにかくもこちらの義務は済むと、先ずこれくらいのところに決心が決まった。縁談の申し込み人としては、非常に冷淡な方である。

 女たる身が、このような冷淡極まる申し込みを受けて、何でうれしいことがあるだろう。品子にして真に、日頃自分の口にも唱え、かっては澄子にも度々言い聞かせたほどの貴族的な魂を備えて居るなら、意地でもこれには応じられないはずである。

 けれど、貴族の意地というのも割合に当てにならないやつで、特に品子の意地と来ては、余ほど得て勝手を含んでいるのだから、いよいよ当てには出来にくい。

 ある朝、冽は、品子を伴って後園に出た。ここで自分の義務を果たすつもりである。同じ縁談の申し込みでも、昔樫林郷で澄子に縁談を申し込んだのとは天地の違いである。

 あの時は動悸もした。声も震えた。もしこの申し込みを退けられたら、どうしてこの世に生きて居られようと実に心配に耐えなかったが、今度は心配も動悸もなにも無い。

 余り何も無さ過ぎて返ってきまりが悪いくらいである。真に平々凡々の調子で、もっともいくらかの親切は含んでいるけれど、少しも熱の無い声で、ただ一通りの口上で縁談のことを述べた。
 品子は聞き終わって、相手の余り冷ややかなのに失望するかと思ったが、そうではなく、女並みに顔を赤くし、うれしそうに承知の意を伝えた。

 そのうれしさが愛のうれしさであるか、はたまた富くじの当たり札を得た吝嗇家(けちんぼ)の喜びのように、欲のうれしさであるかは、本人の外、誰にも分かりはしないが、幾年幾月、ただこの瀬水家の主婦人に、とのみめがけていた心から推察して、真のうれしさに違いない。

 少なくても真の満足に違いない。早く返事をしなければ、もし取り消されては大変と、飛びつくような有様がどこかに見えた。なるほど、この女は、我がために生涯を待つつもりであったのだと冽も初めて納得が行った。勿論こう納得が行って憎く思うはずは無い。

 幾日かの後、準備も非常に静かに運び、儀式も非常に静かに婚礼を済ませた。別にハネムーンの旅行などということも無い。品子は座ったままで、瀬水子爵夫人、即ち瀬水城の女主人とはなった。目出度いか、目出度くないか。


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