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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           十  「時々は便りも聞かせて」

 いよいよ、婚礼の日とはなった。用意万端整った。そしてその式は澄子の生まれた樫林郷の村の教会堂で目出度く行われた。
 その式の盛大な事は、今もって、この村の人々の自慢話になっている。貴族も社交家も軍人も招きに応じ、式場に連なって、盛んな祝辞の演説などもあった。

 この婚礼の為でなければ、どうしてこのような人々がこの村に来ることがあるものか。しかし、貴族も社交家も軍人も花嫁の美しい姿を見て、なるほど、子爵瀬水冽(たけし)がこのような田舎で妻を選んだのは無理もないと思った。むしろ、自分達が冽より先きにこの村に来なかったのを悔やんだほどだった。

 ただ一人この式に洩れていたのは、いや、来るはずだったのが来なかったのは、子爵の母親である。人の推量では多分子爵の本邸で祝宴を開くのに忙しい為だろうと言う事であった。

 式が終わると花嫁は、「目出度い、目出度い」と叫ぶ大勢の声の中を漕ぎ分け、着替えのためひとまず父の家に帰り、住み慣れた自分の部屋に閉じこもった。これがまずこの部屋の見納めである。こう思うとうら悲しい思いもする。やがて着替えが終わたところに、これも、「目出度い、目出度い」と唱えながら父が出てきた。目出度いと言いながらも、目には涙が浮かんでいる。

 実に、父の心はまだ夢のようである。昨日までも、ホンの小児の様に思っていた我が娘が、早や、親の手元を離れ他へ縁付くことに成ったのか。今日から後は、この家に澄子の影が見えないのかと思うと、何だか納得が行かない気持ちがする。

 それも日頃親しく出入りでもする、似通った身分の家に嫁に行くのとは違い、名は出世で有るけれど、実は親子の縁の切れる様なもの。いくら嫁の親だと言っても、そう何度も会いにも行けず、来ることもできないだろう。

 「これ、澄子、もう一度良く顔を見せてくれ。おお、立派な姿になった。もし、お前の母親が生きていたら、どれほどか喜ぶことだろう。」言う中に二,三点、ほろほろと涙が落ちた。澄子も耐え兼ねる思いで、「どうか、お父さん、お元気で。」と言ったまま、取りすがって父の胸に顔を隠した。

 「これ、目出度いから、泣くのじゃない。婿殿はあの通り行き届いた人だし、この後はうれしいことばかりであろう。だが、もしもまた身分が違うとか、何とか言う様な為に、居にくいことでもあったら、いつでもこの家に帰って来なさい。決して心細く思うことはない。この父はな、貴族の交際などは出来ないが、一人娘に苦労をさせて、黙っているような男じゃない。何事にも、後ろに父が付いていると思い、気を丈夫に持っていろ。どこへ出たとて、ひけを取るには及ばないからな。」

 引き立てはするけれど、どこにか気の弱い所のあるのは、老いの愚痴か。親の情か、あたかも、この婚礼が、後々気遣わしいところが有って、自然に虫が知らせると言うものだろうか。澄子はようやく顔を上げて、

 「イエ、お父さん、何も心細いことは有りません。夫の家が我が家ですから。再びこの家に帰るなどと、そのようなことが、」
 「おお、よく言ってくれた。私は口べただから、思うことが思うとおりには言えない。お母さんがいたら、この様なときにふさわしいことを言うことが出来ただろうが、まあ、まあ、無事で、時々は便りも聞かせておくれ。」

 父と娘は抱き合ったまましばらく離れられなくて居たが、やがて、門前に来る馬車の音に引き分けられた。そして、ここに歩み寄ると、早や、門には旅行の馬車が来て、婿の冽がその脇に立って待っている。澄子は手を引かれてこれに乗り、今まで一日と別れたことのない親子が滅多に会えない仲とはなった。

 祝いの為にと言って馬車の左右から花の枝を投げかける人が大勢いたが、主な客は今の汽車で早や本邸を目指して去った。冽も本来ならば、ひとまず屋敷に帰るところだが、物慣れない澄子をすぐさま堅苦しい屋敷に連れて帰るのは痛々しいから、そのまま二人でハネムーンの旅に昇ることにし、その手順を運んである。旅が済んで帰ってその上で、母親にも品子にも引き合わせる積もりなのだ。

 そのうちに馬車はようやく人気のない所に出たが、冽はほっと息をして、今までただ心の中につぶやいていた、「我が物よ、我が物よ。」と言う言葉を初めて口に出して言った。夫婦と言う者の真の幸福はただこの瞬間に有るのだ。

 多くの人は婚礼を以て、人生の幸福の始まる時のように心得ているけれど、婚礼とは、幸福の終わりを弔う儀式たるに過ぎない。女に取っては特にそうだ。これで、苦労の門を潜(くぐ)り入るのだ。

 冽は優しい言葉で「どこに旅しようか。」と聞いた。澄子はどこも知らないのだから、どこでも同じことだ。冽はスイスの山系から、イタリアの名所旧跡、そのほか有名な温泉、保養場所など、これか、あれかと名を上げたが、澄子はただ、「貴方がお出での所ならどこへでも」と答える以外、外を知らない、実に可憐な少女である。

 冽は少しでも多く喜ばせたい一心で、どうしても、一つを選べと迫った。澄子は恥ずかしそうに、「湖上美人の歌にあるスコットランドの湖水は遠すぎますか。」冽は罪のないこの問に微笑んで、「遠ければ遠いだけ結構だ。直ぐにスコットランドの湖水を見物に行くとしよう。」

 直ぐにその通りにした。静かな湖畔でおよそ三月を過ごすうち、二人の交情は密に密に成って行った。もし、そばに誰かが付いていたならば、うらやみ半分に、澄子の世間慣れのしないことを、あれこれ噂して、自然、冽の耳にも入れたのだろうが、幸いにうるさい陰口などもないので、澄子の何事をも恥ずかしがり、何事をも自分で決断できない初々しいところがますます冽の気に入った。

 それは、澄子が三月の後にこの旅を終わり、いよいよ浮き世の波風に、特に母親と品子嬢との波風に、瀬水子爵夫人としてもまれるため、その本邸に帰ったときも、やはり父の家を出るときの通りな世間知らずの女であった。



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