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野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百 「良彦、良彦」

 部屋の中は、一目見て重い病人の寝ている所と分かる。広いところにただひとつランプが点(つ)いている。それもぼんやりと心を細くしてある。全体が薄暗く、そして静かである。一人の看護婦が隅のほうで何かしている様子だけれど、少しも物音は立てない。

 真ん中よりも向こうの壁に寄って立派な広やかな寝台がある。寝台の表面には白いリネンを敷き詰めて、その上に良彦が転がっている。声を出すのはただ彼一人である。

 いかにも老女の言ったとおり、彼は時々何事かを叫びたてる様子である。いわゆる病人のうわごとと言うものだろう。「河田夫人、河田夫人」と呼ぶ声が丁度河田夫人が良彦に目を注いだ時に良彦の口から出た。

 夫人の姿を認めたからではない。全く冽の言ったとおり、声さえ出せば必ず河田夫人の名を呼ぶのである。
 夫人は、何にも言わずただそのそばに駆け寄った。見れば良彦は先ごろまで毎日のように遊びに来ていた時の様子とは違い、頬の肉は落ちて、目の縁が輪の形に窪(くぼ)んでいる。そして、唇は乾き、眼は穏やかならない光を帯て、空に注いでいる。

 「良彦さん、河田夫人が来ましたよ。」
と言ってその前額に手を当てて見ると、前額は熱い。けれど、夫人の言葉は認識しない。何の返事も何の感じも無い。いわば目を開いたままで眠っている様子である。

 もうとても私の看護も届かないかもしれないと、このように思うと共に、夫人の胸には愛と悲しみとが、溢(あふ)れるように湧いて出た。誰がなんと言おうと言うがままにまかせ、私の素性が見破れるなら見破れ、人間の力で我慢していることは出来ない。

 昔、母としてこの子を抱いたように抱き、昔その頬に自分の唇を押し当てたように押し当て、溢れる愛を溢れさせてしまわなければならない。全く夫人は良彦よりほかの事は何もかも忘れた状態で、良彦に寄り添って、その首の下に自分の腕を差し入れ、半ば抱き上げるようにしてその顔を我が胸に押し当て、そしてその熱い前額にキスしながら、「良彦、良彦」とささやいた。

 同じこの子の名を呼ぶにも、母として「良彦」と言うのと、他人として「良彦さん」と言うのとは大きな違いである。良彦と言い切る言葉には全く愛が溢れ出て、身に何とも言いようの無い嬉しさを感じるのだ。

 幸いに老女は早や立ち去り、看護婦も何かしていて、誰も夫人のこの異様な振る舞いを怪しいと見る者はいない。夫人はしばらくの間全く夢中で全く良彦を昔の通りに、わが子の通りに、抱きつ抱(かか)えつ、離して寝かせることが出来ない様子だったが、その情が通じたのか、良彦はなおも眼を空に注いだままで、

 「オオ、阿母(おっか)さん、とうとう帰って来てくれましたね。」
と叫んだ。手枕の具合から、抱かれ具合、総て自然に母の手心と感じるのである。

 生きてこの世で「阿母(おっか)さん」とこの子から呼ばれることは到底無いものと、恨めしく断念していた夫人にとっては、この一語がたとえうわ言にしろ、生涯の望みが届いたような気がした。

 真にこの子と今ここで一緒に死んだら、直ぐに天国に行けるかもしれない。けれどまた、この一語は直ぐに夫人に浮世の辛さを思い出させた。オオ、このようにしてこの子から「阿母(おっか)さん」と呼ばれてはならない。

 心付くが早いか、良彦を下に降ろした。降ろされて良彦は正気に返ったのか、今まで空に注いでいた眼を、初めて夫人の顔に注いだ。全く眠りの覚めた状態である。

 「オオ、河田夫人でしたか。僕は阿母(おっか)さんの夢を見ていましたよ。」
と言って、更に四方を見回した末、
 「僕は嬉しい。貴方が来てくれれば阿母(おっか)さんが来てくれたようなものだ。帰って行きはしないでしょうね。」

 夫人:「ハイ、お父さんが、いや、貴方のお父さんが、迎えにお出でなさったのですから、貴方の良くなるまで、帰らずに付いています。」

 良彦;「貴方でなければ、他の人は何かの音をさせたりして、僕の頭痛がやむときは有りません。ですが、夫人、僕は直る時があるでしょうか。このまま直らずに死ぬのではないでしょうか。正直に聞かせてください。」

 子供ながら、自分で早や自分の一命を危ぶんでいると見える。
 夫人:「オオ、直らないでどうしましょう。私が来たからには、もう安心してお出でなさい。」
と言って力は付けるものの、実は心細さに耐えられない状態である。




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