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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    百二 「弱い不揃いな息の中から」

 泣きは泣いても、ここで泣いてはならないとの気持ちは充分ある。ほとんど、必死の力をもって泣き声を止めてしまった。そして部屋中を見回したが、幸い自分と良彦との他に誰も居ない時であった。

 良彦もこの時はこれきりで言葉を止め、後はまた熱に浮かされ、言うことは皆うわ言となってしまったが、とにかくその心の中に、自分が死ぬということと、本当の母という思いが絶えないと見える。

 この翌日も熱が少し引いた時、心が冴(さ)えている間に、又河田夫人に向かい、
 「こうして病気で寝ていると、いろいろなことを思います。僕はね、もし本当の阿母(おっか)さんが生きていて、僕の看病をしてくれたなら、きっと病気が治ると思います。」

 夫人はまた悲しくなった。けれど今度はもうどうあっても心を動かしてはならないと、前もって用意してかかっている。良彦は目を見張ってつくづくと夫人の顔を見ながら、

 「貴方の顔も何だか僕の阿母(おっか)さんに似ています。ただ髪の毛が違っている、阿母(おっか)さんの髪の毛は金のように光って長かったが、貴方のは短くて黒い。そしてつやも少ない。アノ肖像画を見ても分っているでしょう。ねえ、夫人。」

 夫人;「分かっていますとも。」
 良彦;「時によるとですね、僕が抱かれて寝ていると、さらさらした長い髪の毛が、僕の顔の上に広がって、すべっこく顔一面に触って、どんなに好い心持だったか、そのような時は、きっと阿母(おっか)さんが僕の頬に頬を押し当てたり、何かする時でした。貴方が僕の頬に触るのが丁度阿母(おっか)さんが触るのと同じようですけれど、髪の毛が顔の上に広がりません。」

 夫人は聞くのが辛いから、何とか良彦の心をほかの事に転じさせたいと思うけれど、なんと言えばその心が転じるかうまく紛らわすだけの知恵が出ない。普段なら簡単に出るけれど、今は心が焦っていてそれだけの余裕が無いのだ。

 良彦は言葉を継いで、
 「もしも僕が死んだら、そのそばに必ず阿母(おっか)さんが来るだろうと思います。貴方はどれほど阿母(おっか)さんが僕を可愛がってくれたか知らないでしょう。決して来ずには居ませんよ。そして僕は阿母(おっか)さんに手を引かれて、高く高く雲の上に、天国まで上って行くだろうと思います。いっそ早く死んだほうが好い。このように生きていると、僕はのどが渇いたり、何かして実に辛い。」

 夫人は我知らず、
 「オオ、ごもっともです。今に辛くないように直して上げますよ。」
と言って、枕元にある清涼剤を幾滴か良彦の口に注いだ。良彦はグッと飲み込み、
 「夫人、夫人、少し眠くなったから僕を抱いてください。抱いてくれれば眠るだろうと思います。」

 夫人は抱いた。そして可愛くて仕方が無いように、良彦の顔を自分の胸に押し当てた。
 良彦;「アア、丁度、阿母(おっか)さんに抱かれている通りです。これで僕は眠ります。」

 眠りさえすれば助かると、ただ眠りをのみ祈っている事なので、夫人は真実に良彦が眠るかと有り難い思いがした。けれど、良彦は眠らない。あるいはこれが眠ると言うものかも知れないが、目を開いたままで、少しおっとりしている。

 今に目を閉じるだろう、今に呼吸が真の寝息らしく、順序良く整って来るだろうと、じっと気を付けて待つ甲斐もなく、「熱いよ、熱いよ」と良彦はもがいた。

 「ではこう致しましょう。」
と又仰向けに寝かせたが、
 「僕はどうしても、早く死にたい。」
 夫人;「アレ又その様なことを。」
 良彦;「だって生きていたら阿雄(おっか)さんに会いませんもの。」

 夫人は覚悟した身も耐えかねるほどの思いがする。こうまで母を慕うのに、現在母がここにいて、それと知らせることが出来ないとは、何たる運命だろう。いっそ、どうなっても構わないからもう打ち明けようかと、又いつもの思いが兆(きざ)してきたが、幸いここに父冽が入って来た。

 冽は初めから落胆の声である。
 「アア、少しも変わりが見えませんか。」
こう言って良彦のベッドに近づきその顔をのぞくと、良彦はまだ正気が続いている。弱い不揃いな息の中から、
 「ねえ、お父さん、良彦のそばにもし阿母(おっか)さんが居てくれたなら、良彦はきっと病気が治るだろうと思います。」

 聞いて冽が総身を振るわせる様子が河田夫人には良く分った。
 冽;「イヤ、その様なことを思っても仕方が無い。阿母(おっか)さんはとうに天国に登って、再びこの世には下りてくることは出来ないのだから。何も阿母(おっか)さんで無くても、皆親切ではないか。」

 良彦;「河田夫人がただ一人親切です。」
 冽;「一人でも親切にしてくれればーーーー」
 良彦;「ハイ、河田夫人は阿母(おっか)さんのように親切ですけれど」
 冽;「オオ、阿母(おっか)さんのように親切なら河田夫人を阿母(おっか)さんと思えば好い。」

 夫人はほとんど聞いている力が尽きた。
 良彦;「阿母(おっか)さんと同じことでも、阿母(おっか)さんでなければ良彦が気兼ねをします。あんまり迷惑を掛け過ぎます。」
 子供の口から、病気の口から、何と行き届いた言葉であろう。こうまで気が付く性格だからかえって病気に負けるのだ。

 冽は、悲しさ、切なさに耐えられない声で、
 「そんな風に言ってくれるな。阿母(おっか)さんが居てくれれば好いのに、とは、お前よりも、この頃はこの父が、お前の容態を見るたびに、愚痴なようだが思い出すのだ。」
と涙と共に言い、

 更に亡き人に向かって訴えるように、
 「後悔だ、後悔だ、けれど、天からもし澄子が、この冽のこれほど悔いて、これほど切ない思いに会っていることを見たら、充分にもう敵(かたき)を取り、充分に思い知らせたものと、過ぎた恨みを忘れてくれるだろう。」

 河田夫人は冽の後ろに在って、子の嘆き、父の悲しみを聞き、立ったまま体をも、唇をも動かすことが出来なかった。動かせば必ず魂が消えるまで泣き出すのだ。

 良彦;「ですがねえ、お父さん、河田夫人をご覧なさい。何だか阿母(おっか)さんに好く似ているでは有りませんか。」



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