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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    百三 「時間の問題」

 「河田夫人を御覧なさい。何だか阿母(おっか)さんに似ているでは有りませんか。」
 これが良彦の言葉である。
 冽がこの言葉に従って河田夫人を見るかもしれない。見ないかもしれない。見ればどのように答えるだろう。

 河田夫人はほとんど最後の時が来たと思った。今まで、
 「見たことのある顔だ」
とか、
 「どこかで、お見受けしたようだ。」
とか言われたことは何度もあるが、直接に良彦の母澄子であるように疑われたことは一度も無い。

 冽はこちらに振り向きもしない。ただ軽く聞き流して、
 「阿母(おっか)さんに似た人は有るにしても同じ人はこの世に又とあるはずは無い、お前の阿母(おっか)さんは天下った天使であった、たまにあのような方がこの世に有っても直ぐ天国に呼び返されるのだ。」

 少しも冽が、いまもって澄子を粗略に思わないことはこれで分る。けれど、河田夫人は、もはやここに居る力が無い。足音もさせずに少しの間ここを抜け出た。

 実にこのように辛い場合はない。もしも昔、自分の身を隠すと決心する前に、これほど苦しい場合が来ると知ったら何とかほかに考えようもあっただろうに、現在わが子が母よ、母よと私を呼び、母さえ来れば助かると叫んでいる生死の境に、そばに居ながら母だと知らせることが出来ない。

 そして、寝食を忘れるほど心配している夫をも、妻らしく慰めることが出来ず、他人のままで、ほとんど知らない顔をして見ていなければならない。何ゆえ人生にはこのような辛い場合があるのだろう。そもそも何でこのような辛い人生に自分は生まれて来たのだろうと、自分と言うものの存在さえ恨めしい。

 けれど子を助けたい一心のために、この家から去ってしまうことも出来ず、自分の辛さ悲しさなどに煩わされている場合ではないと、ようやく思い直したが、しかし良彦の病気は少しも軽くなる様子が見えない。

 この翌日である。主治医が明らかに見放す言葉を吐いた。
 「悲しいかな、もう時間の問題となりました。」
 時間の問題とは、どうせ死ぬには決まってはいるが、何時ごろに息を引き取るのか、その時間だけがまだ分らないという意味だ。

 全く望みが絶えたのだ。余りのことに、この語を聞いた父冽は声も出ずにただ主治医の顔を眺めたが、うらみ悲しむ素振りよりも、この無言の有様が気の毒である。

 このような場合、たびたび会う医者でさえ、出来るものなら代わってやりたいなどと言うほどだが、主治医は更に言い直して、
 「この上に試すことは、ただ一通り有ります。これが全く最後ですから、もしこの方法が効を奏しなければ、もう医者の手を離れます。」

 冽はヤッと声を出した。
 「どうか先生、その様におっしゃらずに」
 主治医;「今夜、別種の催眠剤を送りますから、夜の十二時にそれを飲ませ、辺りを極静かにして眠らせるように勉めてください。やはり阿片を元としてはいますが、まだ多くの国の療法には載っていない新法です。これでさえ、もし効を奏しなければ、あとは何の見込みもないのです。」
 こう言い置いて、辞して去った。

 この時、冽のそばには品子も居た。品子は医者の去った後で、いよいよ自分の望みの達する時が来たのだと、まさか自分の心にすら言い切りはしないが、恐ろしいような、気の済まないような、一種の妙な嬉しさが胸の底に沸き起こって、動悸を打ったが、

 夫冽の落胆がほとんど、言い表すことが出来ないほどだから、それを慰めてやらなければならないと思い、強いて悲しいような顔をして、冽に向かった。が何だか何時もほどには、うまく悲しい顔つきが出来ない。

 普段は空笑いでも、空泣きでも自分の思いのままに出来るけれど、この時ばかりはそうは行かない。行かない理由が心の底にわだかまっているのだ。冽も品子の悲しそうに装った顔を見たけれど、少しもこのために慰められた様子は無い。ただ一言、
 「河田夫人をここに呼ばせておくれ。」
と言った切だ。

 品子はこれを切っ掛けに立った。そして部屋の外に出た。このように気弱で余裕の無いことではならないと、部屋の外で良く心を取り鎮め、僕(しもべ)に冽の命を伝えておいて、再び部屋に帰ってみると、冽はソファの上にうつむき、両手を顔に当てているのは確かに男泣きに泣いているのだ。

 ここで充分に慰めて、機嫌をこっちの方に取っておかなければ、後々都合が悪い。冽の背に手を当て、「貴方、貴方」と揺り動かすようにした。今度は本当に悲しいような声に聞こえる。冽が顔を上げるのを待って、

 「悲しいのはご尤(もっと)もです。けれど、その様にお力を落とすものでは有りません。今主治医が言った最後の一方法にどれほどの効き目が有るかも分りませんので、よしや、又効き目無くて良彦の身にもしもの事が有ったとしても、後にまだ、品彦が有るではありませんか。私も居るでは有りませんか。」

 夫の悲しみに付け込んで、早や品彦を売り込もうとしている。勿論そうは聞こえないけれど、その実は全くそうなのだ。



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