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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    百六 「男の様な鼾声」

 今は良彦の一命がただこの小さい一瓶の水薬にかかっていると言っても好い。この薬で良彦が眠れば助かる。イヤ、あるいは助かるかもしれない。もし眠らなければ、万が一にも助かる見込みが無い。実にこの薬をもって一生を九死の中に得ようと言うのだ。

 品子はこの家の主人、良彦のために義理ある母であって見ればこの薬を夫の手から受け取って見るのも尤(もっと)もだ。冽がこれを手渡すのも無理は無い。それを河田夫人が「渡さなければ好いのに」と思うのは少し了見が狭すぎるのではないだろうか。

 そうだ、表面から言えば狭すぎるのだ。けれど、河田夫人は異様に胸騒ぎがした。ほとんど声に出して、「渡さないで」と押し止めたいほどに思った。まさかそうも出来ないから止む無く黙っていたが、少しも目を離さずに、品子がその薬をどうするかと見張っていた。

 品子は別にどうもしない。丁度冽がした通りにその薬を透かしてみて、
 「なるほど綺麗な水のような薬ですね。」
と言って、そして自分の鼻の辺へ持っていって少し匂いをかいだ。匂いがあるとも無いとも言わない。そのまま元の通り冽に返した。これだけのところに怪しいところは少しも無い。

 河田夫人は自分が疑い過ぎたのを少し恥ずかしように思ったが、河田夫人は後で品子のこの時の振る舞いを思い出して、身震いすることがあったそうだ。それはさて置いて、直ぐに冽から今の水薬を河田夫人に渡して、

 「この薬は今も言うとおり遅いだけ好いのですよ。」
 河田夫人;「ハイ、十二時を過ぎて、辺りが全く静まってから用いましょう。」
こう言って河田夫人はここを退き、直ぐに良彦の病室に帰った。そして、今の薬を良彦の枕もとにある薬台の上に載(の)せた。

 ここで少しこの病室の配置を読者に知らせて置きたい。この部屋は庭に向かって窓が三つある大きな部屋である。居間としては余りに大きすぎるので、今から数代前の主人が部屋の三分の一のところに立派な緞帳(どんちょう)を垂(た)らし、部屋を二つに仕切った。

 緞帳の一方の部屋には窓が二つあって、一方には一つしかない。これでその窓の一つある方が付添い人の詰める場所に適している。二つある方にはベッドがあって枕が緞帳の方に向いている。だから、良彦の枕元は丁度緞帳の間際になるのだ。

 この緞帳は暖簾(のれん)のようにところどころに開くところがあって、戸とは違って少しの音もしないように次の部屋から行き来が出来る。病室としては最も好い部屋である。ついでに記して置くと、その緞帳の模様から梅の間と言う名は付けたのだと言うことだ。

 河田夫人が退いた後で、冽は心配そうに考えて、
 「今夜は私自身が良彦の枕元についていて、そして自身であのアノ薬を与えることにしようか。」
と言った。

 品子は少しあわてる様子で、
 「それはいけませんよ。貴方ではアノーー」
と少し言いよどんで、
 「幾らか良彦が気兼ねするかもしれません。かえって眠りを妨げては大変です。」
 冽;「私に良彦が気兼ねをする。その様なことがあるものか。」

 品子はどのような場合にでも、もっともらしい口実を作る。
 「たとえ気兼ねをしなくても、男はどうしても立ち居が女のように物静かには行きません。それに、良彦の目ばかりでなく、耳まで病気で冴えていて、少しの音でも聞きとがめますから、貴方がアノ部屋にお詰めなさるのは、他の夜ならともかく、今夜だけはおよしなさいませ。」

 いかにも親切そうに、何から何までよく注意の行き届くことだ。 
 冽;「そうかも知らん、では老女を付けておこう。」
 品子は驚いたような顔をして、
 「アノ老女を、それは大変です。少し夜が更けると直ぐ居眠りをして、男の様な鼾声をかきますよ。」

 冽;「そうかねえ、アノ行儀正しい老女が、その様な鼾声を、私は少しも知らなかった。」
 品子;「いくら行儀が正しくても、眠った後は自分で知らないから仕方がありません。アレの鼾声は雇い人中で随分評判ですよ。」
 冽は後悔するように、
 「オオ、そなたにもし相談しなければ、私は飛んだ者に夜の看病を命じるところだった。それでは誰が好いだろう。」

 品子;「私の言うとおりになさるのが一番安全です。第一にはお考えの通り十時きっかりに一同を寝かせて、朝まで決して部屋の戸を開きもせず、室外に出ることもならないと言い渡して、そして貴方もお休みください。それならもう、何の物音も良彦の眠りを妨げは致しません。そして病室は河田夫人一人に任せるのが好いでしょう。何でも人数が少ないほど静かですから、それに、河田夫人も必ずその方を喜ぶでしょう。アノ夫人なら決して間違いは有りません。」

 冽;「それは私も知っているさ。アノ夫人なら一人でも沢山では有るが。」
 品子;「とにかく、アノ夫人の考えを聞いてみましょう。もし、どうしても一人では不都合だと言うなら、今夜だけ私が手伝いましょう。」

 実に、実に、親切である。
 冽;「そなたがそうまで勉めてくれるには及ばない。よく頼んで河田夫人に任せてしまおう。なるほど、夫人もその方を喜ぶだろう。」
 品子;「のみならず、夫人一人ほど安全なことは無いでしょう。」

 どうしても夫人一人出なければならないように言い回し、とうとう冽を同意させてしまった。

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