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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    百七 「この時、次の室に当たって」

 間もなく夜の十時になった。冽は品子に言った通りに、家の者一同を寝かしてしまい、今夜に限っては夜の明けるまで部屋の戸を開けることさえならないとの命令を下した。家の中は気味が悪いほど静かだ。

 冽は自分も寝るほかは無いと思ったけれど、今良彦がどのような状態か一応それを見届けた上でなければこのままは引き込めない。我が家ながら忍び入るようにほとんど抜き足で良彦の病室に行った。品子も同じ抜き足でその後をついて行った。

 先ず河田夫人を部屋の一方へ手招きし、手助けのために誰か一人付けて置こうかと聞いた。が夫人の返事は品子の推量どおりで、他の人がいてはどのような物音をさせるかもしれないから、自分一人に任せてくれとのことであった。

 品子も夫に言葉を添えて、それなら自分が手伝いをしようかと言いかけたが、河田夫人はこれをも断った。勿論断るのは無理も無いのだ。

 「お父さん、お父さん」
とこの時良彦がベッドから呼んだ。
 「オオ、今そこへ行こうと思っていた。」
と答えて冽はそのそばに行った。見ると良彦は何時もいやがうえにも張り開いている目を、今夜は少し細くしている。

 多分、体全体が衰えつくして、まぶたまで力が緩んだためであろう。顔などもひどく肉が落ちて、日頃豊かな愛らしい頬もしなびている。あるいはこれが親子の会い納めになるかもしれない。

 明日の朝はもう良彦がこの世には居ないかも知れない。とこのような気もして腸(はらわた)を断ち切る思いである。
 冽;「今夜は何事も考えずに、静かに眠らなければならないよ。眠りさえすれば明日はズッと気分も良くなるから。」
と言い、うつむいてやせた頬の辺りにキスをした。

 けれど、涙が良彦の顔に落ちかかりはしないかと思い、長くうつむいていることができず、やがて頭を上げて顔をそむけた。良彦は冽の後ろに品子が立っているのを見、何時に無く自分から声を掛けて、
 「子爵夫人、僕が良くなれば、品彦のそばに行っても好いでしょう。時々でいいですから品彦を僕と遊ばせてください。」
と言った。

 品子は勿論快く返事をした。けれど、冽の耳には良彦のこの願いが異様に聞こえた。兄として弟のそばに行くのに何も品子の許しを得ることは無い。それが時々でいいからなどと妙に気兼ねをした言葉を吐くのは、さては、さては、品子がそうまで良彦に意地悪く当たり、自分の産んだ品彦のそばに寄せ付けないほどにしていたのかも知れないと、初めてこのような疑いを起こした。

 疑うに付け、自ずから前の母の慈悲深かったことなどを思い出さずには居られないけれど、愚痴などを言うべき時ではないので、ただ良彦に向かい、
 「好くさえなれば何事もお前の望みどおりになるのだから、今夜は好く眠らなければいけないよ。」
と言ってここを去った。

 品子も「良彦さん、良くお眠りなさいよ。」
と言って同じく去った。が去るときに品子の目が、良彦の枕もとの台にある先ほどの水薬の瓶に異様に注いだ。河田夫人はその注ぐ様子を見た。

 何だかその眼の注ぎ方が何時もと違ったように思われたから、河田夫人は我知らず品子の後姿を見送っていた。すると、
 「僕のそばに来てください。」
と良彦に呼ばれた。

 直ぐに夫人がそのそばに戻ると、良彦は夫人の手を捉えて、
 「隠さずに言ってください。僕は今夜死ぬのでしょうか。」
 夫人はびっくりして、
 「何でその様なことをおっしゃいます。」
 良彦;「だって、お父さんが僕の頬にキスする時、涙ぐんでいましたもの。」

 夫人:「それは貴方の気のせいです。」
 良彦;「僕は何死ぬのは構わないけれど、僕が死ねばお父さんが嘆(なげ)くだろうとただそれだけが気にかかる。」
 夫人は迫り来る涙をこらえて、
 「ナニ、眠りさえすれば、後は追々良くなります。サ、私が歌ってあげますから目を閉じて黙って、そうです。そうしてお出でなさい。」
と言い、手枕させて、子を眠らせる歌を、低いやさしい声で歌い始めた。

 良彦は又目を開らき、
 「貴方の歌うのは阿母(おっか)さんと同じことです。何だか目が重くなって来た。僕はきっと眠りますよ。」
眠りますと言ってもなかなか眠りはしない。

 けれど、前より様子は大いに静かになった。この時が既に夜の十一時少し過ぎで、いよいよ医者の指示した十二時になってアノ薬を飲ませたなら、今夜こそ眠るかもしれない。イヤ、どうしても眠らさなければならない。

 河田夫人は全く必死である。或いは歌も聞かせ、話も聞かせ、などしているうち良彦は又一層静かになった。この間に熱心に祈ろうと思い、夫人はソッと手枕を抜いて、ベッドを離れ、再び時計を見ると、早や十二時より十分程前だ。

 非常に静かな夜が、一切の物音を絶って、ほとんどすごいほど静かだ。全く天地が地獄の底に沈んでしまったのではないか、夜仕事に慣れている夫人であるけれど、何やら気味の悪いような気がして、少し身震いをしたが、この時緞帳を隔てた次の間の辺りで、非常にかすかではあるが女が歩いているように、衣服の擦れ合う音が聞こえた。

 聞こえたと言うよりも、むしろ聞こえるような気がしたのだ。

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