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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    百八 「死神の手」

 誰も次の間に来る筈はない。家中の者はもうとっくに、残らず寝てしまったはずである。そうすると、今、女の衣服の擦れ合う音が聞こえた様に思ったのは間違いであっただろうか。

 そうだ間違いに違いない。幾夜も続く看病に疲れたため、神経の弱いところが出来て、聞きもしない音を聞いた様に感じたのだと、一時河田夫人はこのように思いかけたけれど、何だか気にかかる。全くそうとだけ思い安心することは出来ない。

 目を開き、耳を澄ませ、充分に心を次の間とこの部屋の境にかかっている垂れ幕へ注いで立った。再び今のような音はしないけれど、何だか次の間に誰か居るように、しかもその誰かが動いているように、ただ神経に感じられる。

 もし居るとすれば誰だろう。決してこの家の者ではない。この家の者は主人の命令に背いてここに来る様な不心得はしない。と言って戸締りも厳重なこの家に外から入ることが出来るとは思われない。

 外の者でなければ何者だ。余り怪しいので、夫人は我にも無く一種の恐れを起こし、立っている体を震わせた。
 危篤の病人のそばには死神がうろつくと昔からよく言うが、もしや、死神ではないだろうか、とこのようにさえ疑われる。

 疑えば疑うだけ恐ろしく、恐れれば恐れるだけ眼は垂れ幕から離れない。やがて垂れ幕の一部分が少し動いた。決して気のせいや神経の迷いではない。次の間から誰かが垂れ幕にさわったのだ。けれど、けれど今度は前のような音などは聞こえなかった。

 夫人は毎夜この部屋で明かすけれど、いくら夜が更けたといっても、恐ろしく感じたことは一度も無いが、今夜ばかりは恐ろしい。世に死神などと言うものは絵のほかには無い。無いことは良く知っていても、今夜ばかりは何だかあるように思われる。

 今にそろそろと垂れ幕の間からこの部屋に入って来はしないか、そして、ただ一筋で繋(つな)がっている良彦の命の糸を切りはしないか、こう思って良彦の方を見ると、彼は眠っては居ないけれど、静かである。或いはこれが死神に引き取られる間際ではないだろうか。

 確かに夫人は神経が高ぶりすぎている。日頃は思わないことを思い。日頃恐れないことを恐れている。自分でもそう思うが心を取り直すことが出来ない。

 果ては立ったままで身動きさえも出来ないくらい全身が恐ろしさですくんでしまったが、この時、不思議も不思議、垂れ幕の継ぎ目を少し開いて、その間から死神がそっと手を出した。女のような白い手である。イヤ、確かに白い女の手である。

 こうと知っても、夫人はなお恐れに包まれて、益々体がすくむばかりだ。行ってその手を捉えようなどの勇気は悲しいかな少しも出ない。
 
 その手は直ぐに垂れ幕の後ろに引っ込んだ。そして又直ぐに再び出た。今度は眠り薬の入っているあの瓶と同じほどの小さい瓶を持っている。勿論、その中にはやはり綺麗な水が入っているのだ。

 その手が再び引っ込むと共に、今まであった大事な瓶はなくなってしまった。大事な瓶と似通ったのを持って来て取り替えたのだ。
取り替えたけれど、少しの物音もさせない。もし夫人が、何時もの通りベッドの陰にでも居たなら、瓶が取り替えられたことに気が付かなかったところだ。

 死神にしろ、死神でないにしろ、確かに良彦を取り殺す仕業である。良彦の一命がただこの薬にかかっていると言う最後の救いを奪い去るのだ。やがて夫人の心の中にあたかも電気が走ったように母の愛が輝いた。

 今まで恐れにすくんでいた身がたちまち縄を解かれたようになった。こうしてはいられない。今の瓶を取り返さなければ良彦はこの世に無い人となるのだ。

 素早く良彦の顔に眼を注ぎ、そのなおも静かな様子を見て、直ちに垂れ幕をこちらから開いて、何の音もさせずに次の間の闇の中にすべり込んだ。闇の中でも、垂れ幕の開き目から良彦の枕元にある明かりが少し漏れる。その漏れる明かりの端にちらりと人の姿が見えた。勿論、逃げ去る姿である。

 いつの間に開いたのか出口の戸も開いている。多分忍び込むときに開けたのだろう。この戸のところから廊下に逃げて出た様子だが、こうなると河田夫人も恐れが何所にあるかを知らない。

 神経質に自らおびえる気の弱い女ではない。子を守護する愛の神だ。軽く早く、飛鳥のように後を追い、真っ暗な廊下に出たが、暗いも明るいも言っている場合ではない。つまづこうが倒れようが、その様なことは考えてはいない。

 先の足音に飛び掛るようにして、わずかに廊下を一曲した所で、曲者にしがみついた。か弱い身でも必死となっては捕らえる手先に鉄のような力がある。捕らえられたのは何者か分らないが、振り放そうともがくばかりで、振り放すことは出来ない。

 河田夫人は声は低いが叱るように、
 「薬の瓶をお返しなさい。誰だか知らないが返さなければ返させます。」
 曲者は何も言わずに河田夫人を突き飛ばしたけれど、夫人はしがみ付いたままである。しがみ付けば付くほど密着する。

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