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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    百九 「曲者の顔を見た」

 逃げようとする。逃しまいとする。一時はどっちがどうなるか分らなかった。
 逃げるほうも逃げ果せなければ大変だろうが、捕らえる方も捕らえ果せなければ実に大変だ。自分の命よりも大事な良彦の命を取られるのだ。天にも地にもかけがえの無い一人息子を殺されるのだ。

 一生懸命、ナニ、一生懸命とはこれほどの場合ではない。河田夫人の心の状態はその様なありふれた言葉で言い表せるものではない。どうかすると、発狂した女が非常な力を出して男の三人や五人でも抑え切れないことがある。河田夫人のこの時の力は丁度その様なものだろう。

 ほとんど、発狂の力と言っても好い。相手も必死ではあるけれど、突き飛ばしたり、しがみついたりするうちに、段々河田夫人のほうが強くなった。ついには突いても振っても少しも動かない。全く相手の体へ肉か皮かのように取り付いた。

 相手もさる者、こうされても声を出さない。出せば自分が誰かということを悟られるに決まっている。河田夫人も声は出さない。出せばどのように良彦を驚かせるかも知れず、驚かせては命が無いのだ。声も出さなければ、顔も見えない。ただ真っ暗な闇の中で、揉(も)みつ揉まれつ戦っているのだ。

 誰か来て助けてやれば好い。イヤ今夜に限って誰も来る筈は無い。家中の者皆自分の部屋にこもり、夜の明けるまで部屋の戸を開けることさえ禁じられているのだ。せめて光でも出して河田夫人へ相手の顔を見せてやりたい。けれど、これとても同じことだ。出来るはずはないのだ。

 初めは全く曲者のほうが強かった。河田夫人はとても覚束ないと思われた。けれどここが邪、正に勝たずである。曲者の方にはいくらか恐れもあるだろうし、段々増して来る河田夫人の力に、ついには敵しえなくなって、もがきながら少しづつ廊下の上に引きずられた。

 何所まで引きずって行くつもりだろう。少しでも良彦の病室から遠いところへ連れて行き、今一争い争って肝心な薬を取り返さなければならないのだ。これからしばらくの間は闇の中にただ二人のあえぐ声が聞こえるのみであった。

 その声は段々に宿直室方へ近づいた。この部屋とても、今夜誰もいるはずは無い。けれど、夜半にどのようなことで人を呼ばなければならないかも知れないので、その様な時に便利なように、この部屋だけは、良彦が病気となって以来、何時も有明のともし火が点いていて、なお気候はそう寒くは無いが暖炉まで焚いてある。

 少しの湯を沸かしなどするくらいは夜中にこの部屋で、できるのだ。今夜は誰も起きては居ない代わりに、何時でも人を呼ぶことが出来るように、なお更この部屋には冽が注意させている。

 この部屋までの途中で、どれほど二人が争ったか、とにかく河田夫人は曲者をこの部屋まで引き摺りこんだ。あえて人を呼ぶ積りではない、とにかく明かりのあるところで無ければ、どうすることも出来ないからだ。

 ここにはたして明かりも暖炉の火も消さずにある。夫人はこの中に入って、尚も、もがきもがき内側から戸の鍵をヤッと回して、どのように争っても外から誰も入って来る事ができず、又争う声が洩れないようにした。全く果ての果てまで争うという決心である。こう決心するより他は無いのだ。

 そして夫人は曲者の顔を見た。誰だろう。多分はこの者だろうと今まで既に思ってはいたが、全くその者であるけれど驚いた。実に驚かずにはいられない。

 「貴方がまあ品子さん。」
と河田夫人は思わず叫んだ。全く曲者は品子自身だった。これを見ると、河田夫人の念頭には今までの熱心の他に燃えるばかりの腹立たしさも加わった。

 「エエ、貴方は情けないことをなさる。サア、ここへひざを折り、神に感謝をお祈りなさい。貴方は人殺しの大罪を逃れましたよ。」
 実に品子は人殺しの大罪を逃れたのである。澄子に捕らえられなければ、到底取り返しの出来ないまでに良彦の命を奪うところであったのだ。

 河田夫人は曲者を床の上に、自分の足元に押し付けようとした。この時品子の様子はほとんどたとえるものも無い。恥と恐れと、そして怒りまで混じって、美しい顔が夜叉の相になっている。どのようにこの場を切り抜けるのだろう。

 日頃の悪知恵も不誠実な上手い言葉もこの場合にはもはや用を成さないだろうか。用は成してもそれを用いる気力が無いのだろうか。いやいや、そうではない、悪知恵は何所までも悪知恵である。

 彼女は声を震わせて、
 「河田夫人、貴方は何たる無礼を私にお加えなさる。その様なことをすると瀬水子爵をここへ呼びますよ。」
 この語気では河田夫人が悪事を働いた方のように聞こえる。なおも品子は、
 「アア、貴方は発狂したのですね。看病に疲れたせいで無理も無い。御可愛そうですが、発狂した者をもうこの家には置けません。直ぐにこの場で解雇します。」

 幾ら言葉が鋭くても、これくらいのことでこの場を済ますことが出来ると思うなら、賢いようで実は愚かである。

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