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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十一 「では私は誰でしょう」

 「良彦の実母です。瀬水子爵夫人澄子です。」
と日頃の明らかな声を、十分に張り上げて繰り返した。もう今までのみすぼらしい、遠慮がちな河田夫人ではない。自然と気位の備わった真の澄子である。身をも引き伸ばし、度胸も据えて、女主人の地位に就(つ)いたたような様が何所と無く現れている。

 二度まで澄子と名乗るのを聞き、品子は目の底に怒りの色を光らせて、
 「偽りにもほどがあります。何でその様な芝居をなさるのです。アア全く貴方は気が違ったに違い相違ありません。なるほどこの家に澄子という素性の卑しい女が子爵夫人と言われていたことはあります。けれどその女は大勢の目の前で葬られました。現に私がその死骸も葬式も見た一人です。もう今頃はイタリアの土になってしまいました。」

 嘘に品子はこう言うのではない。全くこうと思いつめているのだ。
 夫人;「まだイタリアの土にはなりません。その澄子がこの通りここにいるのです。こういう声が貴方の耳に聞き覚えは有りませんか。長い苦労、悩みのため、顔や姿は変わり果てたにしても、まだ貴方に忘れられるはずは有りません。」

 「貴方は、五年、七年の間、毎日のように御自分がいじめていたこの澄子を忘れましたか。これでも見覚えが無いと言いますか。サア、心を据えてよく私を御覧なさい。」
 目を隠していた眼鏡をもはずした。寡婦の頭巾も取ってしまった。

 今まで、ただ、もしや澄子と悟られたらどうしようとそればかりを気にしていたのに引き換え、こうなってはどうしても澄子と知らせなければならない。眼鏡の下から、現れたその眼は確かに澄子の眼である。

 寡婦の頭巾とともに黒い毛のかもじが取れてしまえば、その後に短く刈ってはあるけれど、昔うらやましさに耐えられなかった黄金のようなつやつやした毛が房のようにわだかまっている。これを澄子でないとは言わせない。

 けれど、もし品子にして、何時ものように心が落ち着いていたなら、そしてその悪知恵に長けた根性で、少し考えをめぐらすだけの余裕があったなら、ここで必ず澄子ではないと言い張ったであろう。

 何所までも澄子ではなく、どこまでも河田夫人の発狂したものと言い張って、再び浮かぶ瀬の無いように蹴落とす心を起こしたに違いない。けれど、品子の心に今はそれだけの余裕が無いのだ。

 幾ら悪知恵は悪知恵でも、自分が人殺しの大罪を犯そうとするところを捕まり、ここまで追い詰められて来て、ほとんど九死に一生をも得がたいという場合だもの、何でそうまで悪巧みをたくましくすることが出来るものか。

 よしんば出来たとしても、そうそう天が許さない。今まで既に悪だくみに悪だくみを重ね、天理にも人情にも背いて、通らない無理ばかりを通して来たのではないか。今までに天罰の当たらないのが不思議と言っても好い。全くここがもう運勢の覆る時なのだろう。

 品子の顔にはなんとも言いようの無い恐れの色が現れてきた。そして声も震えて、
 「墓の中から生き返って来たのですか。」
 この一語は確かに澄子と認めたのである。

 澄子;「ハイ生き返ったのも同然です。良く御覧なさい。もう十分に瀬水子爵夫人澄子だと分ったでしょう。」
 勿論十分に分ったのである。分ると共に品子は、立つ足の力まで失ったように、一二歩、後ろによろめいて、絶望とも何ともたとえ様の無い声で叫んだ。

 「貴方が澄子、――――瀬水夫人、―――では私は誰でしょう。―――品子は何者でしょう。」
 ああ、品子は何者ぞ。品子は何者ぞ。瀬水子爵夫人としてこの通り澄子が生きているととすれば、同じ子爵夫人がもう一人いることは出来ない。

 今まで子爵夫人であった品子は、その実無い者と言えば好いだろう。品子の胸に第一にこの疑いが湧いて起こり、思わず口に発するのも無理は無い。澄子は今まで無いほどの鋭い声で、

 「貴方ですか。貴方は心も行いも人殺しの罪に汚れた人非人です。私の目の前で、そうでないということが出来ますか。私の子良彦を殺すために、これ、この瓶まで盗んでいる身で。」
と言い澄子は手を出してあの瓶を取り返し、そして品子の顔を睨んだ。

 五年八年積もりに積もって来た恨みがなかなかこれくらいのことで晴れるはずは無い。
 「どうして私が今まで死なずにいて、どうして又ここへ現れたか、お聞きなさい。聞かせてあげます。」
と言って、これより深い恨み吐き出そうと身構えた。

 この時澄子は、看護にやつれた今までの河田夫人と全く見違えられるばかりである。青かった顔は血の色が充分現れて、燃えるように照り輝き、ほとんど人に向かってあげたことの無いたれた眼が自然と上がって、天来の決心がその中に光っている。

 全く既に消え去った青春時代の美しさが一時にその顔に返って来たのかと、自ら罪におののいている品子の目にはこう見えた。

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