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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十二 「雪と炭」

 いくら数えてもうらみは尽きない。澄子は腹の底から搾(しぼ)り出すような声で、
 「言わなくても貴方の心には覚えが有るでしょう。私が冽の妻になって以来、貴方がどれほど私をいじめたか。どれほど私を辱めたか。

 その果てが私をもこの家に居られないようにして、夫の愛までも奪いました。私がこの家を出るまでどれほど辛抱していたか、それも貴方が良く知っていなければなりません。品子さん、品子さん、貴方のために私は夫を捨て、家を捨て、子まで捨てて、今まで何年もの間、死んだ人の数に入っていたのです。

 私が汽車の衝突のために死んだと聞いた時、貴方はさぞ喜んだでしょう。けれど、死んだのは私ではなく、私と行き先を変えた腰元の粂女でした。彼女の死骸が私と間違えられたのです。」

 品子はいまさらのように感じて、「エ、エ」と叫んだ。けれどこれ以上の言葉が出ない。
 澄子;「後で私はそのことを新聞で読んだ時、結局間違えられたのを幸いにこの世から隠れてしまえば、かえって夫のため、家のため子のためだろうと、その時から河田夫人と自分の名前でない名を呼んで、自分の身でないこの通りの身となって、人の知らないさびしい月日を送っていました。

 けれど、耐えても耐え切れないのがわが子の可愛さ。今頃はどのようにしているか。他所ながらにも見たいと思い、この土地に来ましたのが、今思いば神のお指図であったかも知れません。もし来なかったら、良彦は貴方のために殺されていたところです。」
と身動きもさせないほどに言い切った。

 今まで澄子の一語一語に、あたかも風に吹かれる木の葉のようにおののいていた品子は、何しろ自分の身の一大事と言う思いに、死に物狂いの勇気が出たようである。聞き終わると共に非常な怒りを顔に表し、

 「エエ、聞くも忌まわしい。女の身で貴方のような詐欺がーーー陰謀がーーー良くまあ企(たくら)まれたものだ。全く私を滅ぼす積りで。」
 澄子;「イイエ、詐欺でも陰謀でもありません。身を隠すと決心したときは、後で夫が後妻を娶るなどの考えは少しも心に浮かびませんでした。今思えばここが女の浅はかなところでしょう。この考えが浮かばなかったことが全く私の間違いです。間違いだからこそ、どれほど一人で後悔したか知れません。」

 品子;「嘘です。嘘です。死んだと見せかけ、一度私を冽の妻にさせて置いて、そして自分の身を現し、私を破滅させようと深くたくらんだ計略です。エエ、その様な計略にはまったのが情けない。」
と言い、今はほとんど澄子に掴みかからんほどのすさまじい勢いだ。

 澄子;「イエ、品子さん、企みではありません。今が今まで私は自分の本性を名乗るなどの気持ちは無く、隠せるだけは押し隠して、何時までも貴方を子爵夫人のままで置く積りでいたのです。けれど、貴方が私の子良彦を殺そうとなさるから、悔しさやら、腹立たしさに、前後の事も打ち忘れて、ツイ、何もかも言ってしまい、自分の本性までも明かしたのです。

 恨みは恨み、過ちは過ちですから、責めるところは貴方に責めて、詫びるところは又貴方に詫びましょう。品子さん。モシ品子さん、貴方をこのような恥ずかしい身分とし、いまさら取り返しも付かない位置に立たせたのは、全く私の考えの足りないところから出たことですから、深い企みなどと言わずに、どうか私の過ちであったと思ってください。」

 このような際にもまだ、恨みと過ちを別なことと分けて、詫びるとは、全く天性のやさしい心根にして、普通の人にはほとんど真似の出来ないところである。
品子は聞くにしたがって、ひしひしと自分の堕落、自分の破滅が心に徹するばかりである。

 「エエ、悔しい、田舎代官の娘のために、この身がこのような目にあって、五年六年連れ添った夫が夫で無く、生まれた子が、父の子と言うことも出来ない身とは、澄子さん、幾らうらみのためにもせよ、復讐にもせよ、私をここまでひどい目に合わせて貴方は済むと思っているのですか。」

 流石に気の毒である。
 澄子;「イヤ、済みません。済まないからこれだけお詫びするのです。私も貴方が良彦を殺そうとした恨みを忘れますから、貴方も私への恨みをお忘れください。」

 澄子の恨みと品子の恨みと、比べたらどちらが深い。品子の恨みは全く自分の心から招いたので、いわば当然の天罰である。自分の心を恨んでこそ然るべきものだ。決して人を恨むべきではないが、澄子は其れをも許し、互いに罪を忘れようと言っている。

 品子は中々そうではない。両のこぶしを握り固めて、
 「忘れられるなら忘れなさい。私のほうは貴方を取り殺すまで忘れることはできません。」
 言い切る顔は全く夜叉の容貌と言ってもよい。

 同じ女の心でも清いのと穢れたのとでは大変な違いではないか。ほとんど雪と炭である。そしてなおも執念深く、
 「イヤ、この場だけは澄子さん全く貴方が勝ちました。ハイ、全く私が負けたのです。けれど、何時までも勝っていられるものか、私は決して負け切りに負ける女ではありませんから、よく気を付けてお出でなさい。最後の勝ちがどっちにあるか、良く分るまで戦いましょう。」
と気味の悪いことを言うのは、日頃の悪知恵に長けた心で、又何かこの勝敗を逆転するような工夫でも考え付いたのかもしれない。

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