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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十四 「罠に罹(かか)った獣のように」

 朝の八時になって良彦は、その眠りが穏やかであったのと同じく極穏やかに目を覚ました。全く七時間は何事も知らずに眠ったのだ。実に医者の言った通りである。ただ眠りさえすれば助かると。眠ったために全く助かった。

 熱に燃えているように見えた目が今はいくらか涼しげに見える。いらいらといらだつように見えていた顔全体がゆったりと落ち着いている。もう決して危篤な病人の顔ではない。いわば逆のものが順に返ったような有様で、病の峠を越したことは河田夫人の目にも分る。これからはもう段々良くなる一方に違いない。

 河田夫人は優しくその顔に頬を当てて、
 「今朝は如何です。何時もより気持ちが好いでしょう。」
 良彦;「ハイ、もう死なずに済むような気がします。僕はこんなに良くなったことを早くお父さんに知らせたいです。」

 やがて他の看護婦などもこの部屋に来た。誰一人これで良彦は助かると思わない者は無く、思って気が軽くなるのを感じない者は居ない。しばらくして冽もここに来た。

 河田夫人は、冽が良彦の枕元に来るとともに座を立って次の間に退いた。実は退いて少し自分の心を静め、又体も休めなければならないのだ。この間に父と子と喜ばしい話をするであろう。けれど、その実、河田夫人の心は中々静まりはしない。

 良彦が助かるとなった事については、どうしても自分の身の上の秘密を冽に告げなければならない。告げれば、何しろ並大抵でなく夫を欺いていたのだから、幾ら良彦が可愛くても、ノメノメこの家に居ることは出来ない。

 どうしても立ち去る以外に無い。辛くてもこれだけは仕方が無いが、それにしても冽はどのように思うだろう。ほとんど信じないほどに驚くに違いない。驚いて喜ぶだろうか。はたまた怒るだろうか。

 いや、喜ぶはずは無い。これがもし、品子を後妻にしない前とか、後妻にしても、品彦が生まれる前とか言うならともかく、既に何から何まで、私が無い者となってそれぞれ順序を得た後だから、必ず立腹する。

 やはり品子が私を罵(ののし)った通り、詐欺者とか、深い陰謀とか言うに違いない。口には言わなくても心では必ずそう思うだろう。いっそ打ち明けずにーーーイヤ打ち明けずに済むことではない。打ち明けずに去れば、後で品子が又どのようなことをするか分らない。

 考えるに従って益々この後が暗く暗くなるばかりだ。けれど、これも私の過(あやま)ちから出たことで、いまさら取り返す道が無いから、打ち明けた上で後は成り行きに任せるより他は無い。とようやく思い定めたところに、冽が病室から出て追って来た。

 彼はただ喜ばしそうに、
 「全く良彦はこれで助かります。河田夫人、私は第一に神に感謝し、第二に貴方に感謝しなければなりません。貴方は全く良彦の命の親です。」
 こう言って自分の両手に夫人の両手を取り、真実有り難くて仕方が無いと言うように、両手の甲にキスをした。

 夫人の身には嬉しいと言おうか悲しいと言おうか、一種の強い電気が満ち渡るような気がした。
 いっそ今ここで打ち明けたなら、かえって何事も滑らかに行くかもしれない。けれど、夫人にはその勇気が無いばかりでなく、今夜打ち明けると品子に約束したのだから、日が暮れるまで待たなければならない。

 それにしても、何とかここで冽に返事とか挨拶とか一言は言わなければならない。ところがその一言が口から出ない。冽は変に感じた様子ではあるが、全く看病に疲れ過ぎて口を利くのもイヤなのだろうと察し、
 「これで先ず昼間だけは看護婦に任せて置けますから、どうかゆっくりとお休みください。」
この言葉を残して、冽は去った。

 けれど、ここに河田夫人の澄子よりもなおひとしお辛い境遇に立って、物狂おしく煩悶している一人が居る。それは自分の性分から当然の天罰を招いた品子である。

 彼女は澄子と争った挙句に、
 「負けきりには負けないからお気を附けなさい。」
と叫んで、自分の部屋に帰ったが、負けきりには負けないと言っても、実はこの負けを転じて勝ちとする方法は無い。イヤ、その奸智に長けた心に、様々な工夫が浮かんでくるが、どれも敗を転じて、勝ちとするするには足りない。

 何しろ相手澄子のすることが一々道にかなっている。どうにかして彼女を狂人と言いなして、決して本当の澄子ではないと言い張るのが一番の近道の様ではあるが、もしそう言って冽の前に争うことになれば決して冽が承知しない。

 寡婦の頭巾をかぶり青いめがねを掛けて看護婦が仕事をしている間はもう四十をも越した夫人かと思われるが、頭巾を脱いで、自分で澄子と名乗った時には、顔は昔の血色に戻り、何年か前の澄子と大して違いは無いように思われた。

 良く思えば、自分よりも年が下で、憎らしいほど美しさが残っている。どうして澄子でないと言い張ることが出来るだろう。その上に、澄子の口から、昨夜自分がしたことが冽の前で話されては、イヤ、昨夜のことは如何とでも言い消すことは出来る。

 あんまり薬が強いから良彦のためを思い、ソッと取り替えたと言っても、或いはいっそ、上を通り越して、少しもその様な覚えは無い、それは河田夫人が看病に疲れてその様な夢を見たのだろうと、こう言っても、誰も現場を見た証人はなし、証拠物も、―――イヤ無いでは無い。

 持って行って取り替えた偽瓶が良彦の枕元の台に残っている。けれどこれも何とか言って、決して私が持って行った物では無いとーーー言い張ったところで冽が果たしてその言葉を信じるだろうか。

 それも冽の心に澄子への未練が全く消えているなら、又どのようにしても、舌の先で、もっともらしく聞こえるようにすることも出来るけれど、あいにく冽の心には澄子への未練が充分に有る。

 充分あるどころか昔の愛よりもなお強い愛が残っているかもしれない。これが何よりも私には邪魔だ。私と澄子と共に冽の前に立って争うとなれば、決して冽の心は、私には傾きはしない。

 五分五分のことならともかく、向こうは有ったことを有ったままに真実を言い、こっちは有ったことを無かったように言い消すのだから、―――アア、これを思うと、万に一つも澄子に勝って、自分の言い分を通す見込みは無いと、

 かえって知恵がたくましいだけに、自分の弱点が良く分り、あたかも罠(わな)に罹った獣のように益々もがいて、益々自分を苦しめることとなった。

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