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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十六 「そうするだけの材料」

 死に物狂いとなった品子には、人一人を殺すくらいは何でもない。澄子を殺してしまいさえすれば、何事も無くこの土壇場が切り抜けられるのだ。死んだ後では勿論寡婦の頭巾は取り除けられるのだから、多分、河田夫人と称したこの女が、何者かの姿を変えたのであると分るだろう。

 何のためにこのような姿を変えていたかきっと深い理由があったのだろうと怪しまれもするだろう。ことによると夫冽がこれは澄子だと見破るかもしれない。見破ったところで死んだ後なら仕方が無い。

 勿論深く嘆くであろう。可愛そうな女だとか、死ぬ前になぜ気が付かなかったのだろうなどと、果てしも無い愚痴が出て、一月も二月も悲しみに沈むかもしれない。けれど、何よりも家名が大事だから、冽は何としてでも、その秘密を伏せ、自分の胸に畳んでしまって、誰にも知らさないことにするだろう。

 そして又、死んだものより生きている方が大事だから、私との婚礼を更に正式にし直すなど、それぞれ手を尽くして何事も順当な道に引き戻すに違いない。
 こう思い定めては、人を殺す罪の恐ろしいなどと言う感じは少しも無い。

 自分と自分の子とが、名誉をも身分も失う場合ではないか。いわば猛獣に出会って命を取られる場合と同じことだ。その場合に猛獣を殺して自分の身を防ぐのは当たり前だ。正当防衛だもの。神の目から見たとて何の罪になるだろう。

 もし人の目からは、―――そうだ人の目からは、誰が殺したとも分らない様に、夫人が一人で死んだものーーーと見せかけなければならない。これも難しいことではない。そうするだけの材料は一眠りして夜の明けた上で、自分で町まで行って買ってくれば好い。

 こう決心して先ず寝床についた。実にあきれたものである。けれど流石に普段のようにそう早くは眠れない。様々なことが心の底から浮かんでくる。このようになると知っていればアノ学校を建てなければよかった。

 自分の今までにただ一つしかない好い事業が、自分の破滅をきたす元になるとは本当に何たる因果だろう。せめて教員の雇い入れを人任せにせにしておかずに、自分で試験のところにいたなら、まさか澄子は雇わなかったかもしれない。

 雇いさえしなければ何事も無く済んだのになどと、それからそれへ考えてみると、なるほどその後にも、澄子の振る舞いに段々異様なところは有った。それをなぜ澄子と見破れなかったのだろう。なぜ良彦の看病にこの家に呼んで来ることにしたと、愚痴半分に怪しみはするけれど、それが即ち天罰だと言うところへ少しも気が付かない。

 そのうちに眠ってしまった。日が出て後に目を醒ました。そして何時もの通りに身支度をして、なおも今日の手段をこまごまと考え決めた。もとよりたくましい知恵だから、何から何まで落ちも無く計画してしまったのだ。

 丁度そこに乳母が品彦を抱いて来た。何時もは機嫌が好い子なのに、どういうわけか今朝は泣いてばかりいて、中々泣き止まない。或いはこれから大いなる災いが起こることが、自然に子供の神経に通じたのではないだろうか。

 しばらくしてやっと泣き止ませ、
 「コレ、品彦、母さんのすることは総てお前のためばかりだ。」と、思わず口から漏らした時には、流石に悪人ながらも涙に好く似たものが眼の辺に現れていた。

 そして間もなく食堂に下りてゆくと、引き続き冽も来た。冽は何よりも先に、
 「品子や喜んでおくれ。良彦が七時間ほど好く眠った。目が覚めた顔の様子では、コレで助かるに違いない。」
と言いかけたが、品子の顔の何だか何時もと変わっているのを見て、

 「貴方はどうかしたのか。たいそう顔の色が。」
 品子;「ハイ、何時ものリュウマチが痛んで、昨夜は少しも眠れませんでした。」
 誠よりも簡単に嘘を言う実に便利な口である。
 冽;「それはいかんな、今に良彦の主治医が来るから。」

 品子;「イイエ、あの医者の薬より、やはり自分の飲む持薬のほうがよく効きますが、あいにくそれが無くなっているものですから、夜通し苦しみましたが、後ほど自分で町に行き薬を買い整いて来て、調合します。」

 冽;「今貴方に床にでも就かれたら困るから、如何でも気の済むようにするのは好いが、自分で買いに行かなくても。」
 品子;「イイエ、自分で買って来なければ、何だか不安心です。馬車で行けばホンの一走りですもの」

 その実馬車だとて一走りではない。薬くらいの小買い物に、子爵夫人とも言われる者が自分でわざわざ出かけて行くとは、何か目的が無くてはならない。冽はそうも気が付かないけれど、

 「イヤ、それは困った、あいにく大人しい女馬は足を痛め、鹿毛は風邪を引いていて外には出されず、丁度そなたの馬車に間に合う馬が」
 品子;「無くても、別当に言えば何とかなるでしょう。何心配に及びません。どうしても馬が出来なければ、おっしゃるとおり使いで済ますかもしれませんから。」

 何気なく言う顔の底に、人を殺す決心を隠しているとは、恐ろしいという以外言いようが無い。

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