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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十八 「何方(どっち)が青い」

 「お父さん、非常に気持ちが好くなりました。もう死なずに済みますね。」
とは良彦がこの日枕元に居る父に言った言葉である。  
 父:「オオ、もう大丈夫だ。天が助けてくださったのだ。」
 絶えて笑みと言うものの浮かんだことの無い良彦の顔に、笑みが浮かんだ。

 このところに、先ほどから次の間に退いて一休みをしていた河田夫人が入って来た。
 父;「良彦、今度助かったことについては、神に感謝した次には、河田夫人に感謝しなければならない。夫人の恩を忘れてはいけないよ。」
 良彦;「はい、夫人の恩は生涯忘れません。夫人が看病してくれなかったら、とうに死んでいるところだと思います。」

 夫人は座に着いてこの言葉を聞いたが何も言わない。首を垂れたままである。実に夫人の心はこの時が一番苦しい。今まで夫をも子をも欺いていたことが、明日の日とならないうちに分るのだ。悪気で欺(あざむ)いた訳では無くても、その事が分ると共に、この家の平和もなくなるのだ。

 夫冽の身にとってはこれほど辛いことは又と無いであろう。今まで妻と思って品子がその実妻ではなく、そしてその妻でない女が良彦の命を狙っている。実にどのように処置したらよいか分らないことだろう。

 どうか打ち明けずに済むことなら、打ち明けずにこのままでいたい。このまま居て、良彦の病気が治ってしまうまで見届けたい。けれどそれはもう言っても返らないことだ。打ち明けると共に自分はこの家を立ち去って、再び死人の数に入るように、深く身を隠すだけだ。隠さなければ到底この家が治まる方法は無い。

 夫人が打ちひしがれて、このように考えている時、この部屋の戸がソット開いた。そして、外から執事の顔だけが現れた。冽は振り向いてその顔を見たが、普段の執事とはほとんど別人のように顔の色が変わって、目にもただ事ではない恐れを現している。

 これはただ事ではないと、見て取って、冽は戸口まで立って行くと、執事は何にも言わずに、冽の肩をつかまえて、外の廊下に引き出した。冽は胸を騒がしながら外から部屋の戸を閉めて、
 「何事だ、何事だ。」
 聞いても執事は口を開かない。

 なおも廊下を一曲がりする所まで連れて行って、
 「実に何とも申し上げようの無いことが起こりました。」
 冽;「と言うだけでは何のことか分らないが。」
 執事;「奥様が、先ほどお出ましになられまして、誰の過ちだか分りませんが、その馬車にあの当歳を付けて有りましたので。」

 当歳と聞いただけで八分通り理解が出来た。彼は息もせわしく  
 「そしてどうした。」
 執事;「大変な怪我をしました。奥様はただ今医者の馬車に乗せられ、お帰りなされ、やっと居間に担ぎこまれました。」
 冽;「それでは、それでは。」
と言っただけで後の言葉は口から出ない。

 執事;「馬が一匹は即死、御者も即死」
 冽;「品子は、品子は」
 執事;「まだ御存命ですが。」
 冽は人間の声とは思われないような叫び声を発して二階に飛ぶように登って行った。

 その辺に大勢の者共がざわざわしているけれど、冽は一々見分けもしない。直ぐに品子の居間の戸を開けて中に入った。見ると広い真ん中に、ベッドが置かれて、品子が寝かされている。日頃生き生きした顔に、少しの血色も無く、目は細く開いてはいるが、夫の顔を見る力も無い。

 冽は直ぐその顔に自分の顔を近づけて二声三声品子の名を呼んだ。けれど、唇さえ動かさない。生きているとは名ばかりである。
そばに付いている医師にやがて向かって、
 「もう見込みは無いですか。」
と聞いた。

 医師;「ハイ、悲しいかな何の見込みも有りません。ひどく脊髄をお傷(いため)なさって、その上に脳を震盪なされました。どちらも致命の怪我ですから、ただこのままに、一、二時間は続くかも知れませんが、再び人事を知ることは決してお有りなされません。」

 冽の様子は見るも哀れである。あえてこの女をそれほど深く愛したわけではないが、愛した愛さないの区別をつける場合ではない。 やっと良彦が助かることになって、安心する間もなく妻が、しかもこの通りの無残な最後に臨んでいる。

 これを悲しまなければ人間ではない。彼は震える声で、
 「私の顔さえ、私の声さえ、知ることが出来ないだろうか。」
 医師;「ハイ、もう何のお感じも有りません。この世では再びどなたの顔をもお見分けることは出来ないのです。」

 なんと言う悲しい言葉だろう。そして医師は又しばらくして、 
 「けれど、ご当人には、極めて安楽なご最後です。」
 心にあれだけの罪が有って果たして安楽な往生が遂げられようか。とにかく、何の苦痛をも感じるだけの知覚が無いことは、医者の言う通りである。

 召使の中の一人がこの所に品彦を抱いて来た。これが母の死に目に会わせると言う極めて辛い勉めである。品彦は母の顔を見て嬉しそうに微笑んだが、又余りその静かなことに驚いて、父と医者の重々しい顔を見回した後、ワッと泣き出した。

 この子も実に不幸な生まれではある。親の罪が子に報いるとはこのことだろうか。実に人たる者は自分は如何でも、常に深く子の事思って身を保たなければならない。自分の罪を子に及ぼすのが何よりも非道である。

 冽はこの様子を見るのに耐えられない。直ぐに品彦を部屋の外に連れ去らせた。引き違いにこの部屋に入ってきたのは河田夫人の澄子である。澄子の顔と品子の顔とどっちが青いかほとんど分らないほどである。

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