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野の花(前篇)

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

          十二 「華美な事がお好き」

 澄子がもし、少し愚かな女なら、身分の違いをそうひどくは感じないから、かえって、良かったかも知れない。ところが澄子はなかなかわきまえのある女で、すでに初めから身分の違いを気遣って、この縁談を断ろうとしたほどだから、身分の違いと言う思いがいつも頭から離れない。

 それも、もし愚か者なら少しくらい恥をかいてもかまわないと言う心で、万事を押し通して行くかも知れないが、澄子にはそれが出来ない。自分一人なら兎に角も、すでに夫を持った上は、自分が笑われることは、夫の恥だから、どうにか笑われないように、失敗しないようにしてゆきたいと、一生懸命に勉める気になっている。

 サアその勉める気になっているだけに、ますます心が萎縮して、事ごとに気が引ける。既にこの屋敷の外側の厳(いか)めしさを見たときから、心配が先に立ち、あたふたとしているのだ。可愛そうに十七と言えば、まだほんの子供なのに、全く世界の違うようなこの屋敷に主婦として迎えられ、そして、誰一人、親身の親切を以て、いたわってくれる者がいない。ただ、夫冽(たけし)の愛を杖とも柱とも頼むばかりだ。

 もし、他日、イヤ、そのようなことはありはしないだろうが、万一に冽の愛が衰えるような事が有ったらどうだろう。それこそ生きながらの、いや、輿入れ早々から、この様な不吉な事は言わないで置こう。

 先ず、幸いに冽の母親に会ったときだけは、ただ、人懐かしい自然の真情で、礼儀も作法も無しに、ふつつかながらも、非難されずに引き合わせが済んだ。勿論、三月も旅に出ていて、夫の顔の外には知った人が無かったから、我が第二の母親と思えば懐かしいのはもっともである。けれど、自然の真情で済む場合は既に通り越し、後は、交際の駆け引きで無くては出来ない話となった。

 随分、世の中には芝居の事以外は何の話もできない女がいる。頭から人の前で、口の利けない女もある。澄子はそれほどではないが、向こうの言葉に応じては、流行のことも話さなければならない。浮き世の隅の樫林郷から外を見たことのない、この少女にそのようなことが、どうして出来るだろうか。

 これと言う失敗は無いけれど、十分も立たない中に冽は痛々しい気持ちになってきた。そばから助けてやらなければ成らないので、「お母さん、もう、食事の用意が良いでしょう。私も澄子も空腹ですから。」この言葉に救われて、ひとまずここを切り上げる事になった。

 食事と言っても、所謂ディナーである。毛皮の付いた旅着のままで臨むことは出来ない。母親;「では子爵夫人、お召し替えを。」澄子はこれにも顔を赤らめ、「アレ、子爵夫人などと、どうか澄子とお呼びくださって、」こう言ったまま、冽に連れられてここを出て、あらかじめ新夫人の部屋と決めてある、二階の一室の入り口まで送られた。

 そして冽はその入り口で、「今夜の衣服は特に注意しなくてはいけないよ、そうしないと、品子さんに輝き負かされるから。」との言葉を残して立ち去った。、品子が幾ら立派な上品な作りでも、澄子を輝き負かすと言うことが出来ようとは思われない。

 「はい」と答えて部屋に入ったが、サア、どのような服を着て行く場合なのか、少しも見当がつかない。幸い、夫の許しを得て、旅先で雇い入れ、自分より幾時間か先にこの家によこしてあった侍女が、もはやお召し替えの時間とタンスを開いて待っていた。

 この様なことは、その侍女の方がかえって良く知っているだろうが、まさか、子爵夫人が衣服の事を侍女に教えを仰ぐ訳にはいかない。まず、見た上で決めようと、その侍女に一々晴れ着を取り出させた。

 そのうちで、白い繻珍の正服が一番似合わしかろうと思い、自分でこれを選んだ。侍女はこれを怪しんで、恐る恐る、「奥様、正服でよろしゅうございますか。」と聞いたが、もとより、略服で好いい場合なら、特に夫が、衣服に気を付けよと言うはずはないと理解し、「夫の指図もあるから。」とおぼつかなそうに答えた。

 勿論、正服のことだから、白い肩が出ていて、立派なことは実に立派だ。これに応じては、飾り物もどうしても、ダイヤモンドで無くてはならない。頭にも首にも肩にも、相応の飾りを付け、一応鏡に向かって、少しも落ち度の無い様子を映して見て、そして、もとの部屋に戻った。

 見れば母親も、品子も、特に品子は極々きれいに着飾ってはいるが、盛装ではない中服である。はては正装の場合では無かったかと、初めて気が付いた。けれど、今更引き返す事もできない。おずおずとして、座に着いた。けれど、ほとんど、母親と品子の顔を見る勇気はない。見れば、きっと笑われるだろう。

 母親と品子は、大きな目をして、意味ありげに顔を見合わせた。けれど、母親は流石に気の毒だと思ったのか、うまくその場の調子を合わせてやった。 「オヤ、子爵ーー、いや、澄子さん、貴方は今夜食堂に、大勢の客が有るようにお思いでしたね。それではご失望でしょう。今夜は家の者以外は誰も列席しないのです。」

 わざわざその場の調子を合わせてくれるかと思いば、有り難くはあるが、なおさら極まりが悪い。丁度その時、冽が来た。これも正装で有るはずがない。冽の眼は第一に澄子に注いだが、不思議に思ったようだった。品子はそばから、「子爵夫人は余ほど派手好みと見えます。」と褒め立てるように皮肉を言った。

 澄子は顔から火が出る思いである。既に、冽は、「さあ、食堂に行きましょう。」と母に言って、次ぎに澄子の手を取った。澄子は食堂に入るのさえも重荷だった。一同と共に廊下を歩む足毎に、サワサワと鳴る服の音が、一々我が落ち度を吹聴するように聞こえる。



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