nonohana121
野の花(後篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
百二十一 「其外(そのほか)にも目的が」
冽はいよいよ良彦を連れてスコットランドに立った。そして河田夫人は品彦を預けられてプライトンというところの、静かな別荘に引きこもった。勿論品彦には、生まれた時からの乳母がそのまま付いているのだ。決して河田夫人が乳母のような仕事をするわけではなく、品彦に対して母のような監督者の地位に立つのだ。
河田夫人は深く決心している。どうしてもこの子を十分に良く育てなければならないと。だから、夜と無く昼と無く気を付けて、この子を愛しこの子をいたわる様子は、自分の子良彦を看病した様子と余り変わらない。
たとえ品子が生きていたとしても、これ以上のことは決してできない。イヤ、これだけの事は出来ない。全く夫人は生みの母に勝るほどの親切を持っているのだ。これがために品彦は間もなく河田夫人になじみ、母を慕うように夫人を慕うこととなった。
勿論母を失ったのはこの子にとっては不幸だが、その不幸は夫人の愛で埋め合わせが付いているようなものだ。けれど、考えれば夫人の身は実にはかないものだ。このように品彦を愛するのも、まだ罪滅ぼしと言う一念で、少しも末の楽しみがあるわけではない。
品彦を立派に育て上げれば、自分の生涯の過ちが幾らか消えるだろう。品子が死ぬことになったのも、元を尋ねれば矢張り私の過ちから出たことで、私の過ちのためにこそ、冽の後妻にもなり、品彦も出来、そして継子良彦が憎くなって、アノような恐ろしい災いを作ったのだ。
私の所業は、夫にも家にも品子にも良彦、品彦にも、実に四方八方へ対して罪を作ったようなものだから、せめてその万一でも、自分の命がある内に償わなければならない。いや、自分の生涯はただその罪、その過ちを償うだけのために、苦しまれるだけ苦しまなければならない。苦しんだ上で、どうなるかと言えば、どうなるわけでもない。人間に籍も無い河田夫人のままでついには死ぬのだ。
夫人がプライトンに引き込んで、一月ほど経ち、ようやく居心地も定まった頃、思い掛けない人が尋ねて来た。それは冽の母御である。
母御は先に良彦が病気となった頃から、体が優れないとの事で、余り家事に向きには携(たずさ)わらず、自然に河田夫人と顔を合わすことも稀で、特に言葉を交えることなどは、絶えてないほどだった。これが何用でわざわざ尋ねて来たのだろう。
勿論河田夫人は、この母御が来たのを邪魔には思わない。一頃自分の姑として毎日母同様に仰いだ人だから、尋ねてくれた親切を謝して、もてなすだけはもてなしたが、その言葉によると、瀬水城が寂しいから孫品彦の顔を見に来たとの事である。けれど、何だかそのほかに目的があるように思われた。
そして母御は一週間ほど逗留して立ち去ったが、数日の後又尋ねて来た。今度はこの土地の空気が自分の体に適するようだから少し永逗留をしたいと言って、その辺の用意もして来た様子である。
昔、姑であった頃には、澄子の平民と言う身分を卑(いや)しむように見え、澄子の方でも深くはなじまなかったけれど、今になって見ると案外に親切なところも有り、逗留するに従って、一日一日に澄子との親しみが増してくる。
果ては澄子を、自分の娘のように思う様子で、万事に注意する上に、なるたけ澄子を自分の手元に引き付けて置くように勉め、澄子が立ち去る時などにも、熱心にその後姿を見送りなどをする。
澄子はその様なところにまでは気が付かなかったが、何しろ、思ったより親切な方であったと、少し頼もしいような気がし始めた。
ある日のこと、母御は、品彦が乳母と共に外に出て、自分と河田夫人と全く差し向かいにとなった時、様々な話の末に、
「貴方は品彦を自分の子のように思うと見えますねえ。」
とほとんど母の口調で聞いた。
何でも無い問いのようで、こう改まって言われると河田夫人にとり、少し辛いところがある。夫人は少し言葉をもらし、
「ハイ、自分の子のように思わなければ、人様の子を世話することは出来ません。」
母御;「良彦も丁度自分の子のように思って。」
夫人は分るか分らないか位に顔に赤い色を現して、「ハイ」と答えた。
母御;「私を母のように思ってくれることは出来ないだろうか。」
何だか気味の悪いような異様な問いである。けれど、他に返事の仕様が無い。
「もったいない事をおっしゃる。私のような不行き届きの者が。」
母御;「私の方は貴方を娘のように思えばこそ、こうして気兼ねなく逗留もしているのだが。それでも、貴方の方では私を母と思うことは出来ませんか。」
河田夫人;「アレ、そうでは有りませんがーーー」
母御;「そうでなければ、母と思われないはずは無いでしょう。」
夫人;「ハイ」
母御は少しも躊躇(ちゅうちょ)せず、
「それが出来れば私の子の冽を夫と思うことも出来るはずです。」
と言い切った。
河田夫人の顔は紅のように赤くなった。
夫人;「ご冗談にもその様なことを。」
母御;「イヤ、冗談ではありません。貴方の方では誰も気が付かないと思っているだろうが、イヤ、全く誰も気が付かないけれど、私は貴方が始めて河田夫人と名乗って来た時から、良く似た女がいるものだと、それとは無く気を付けていましたが、見れば見るほどその様に思われて、どうも疑いが晴れないから、今は冽の留守を幸いに、この通りここに逗留しに来ました。体の保養とは言い訳で、本当は河田夫人を、嫁の澄子と見届けたいばかりの事。澄子、澄子、どうか私を母様と言っておくれ。」
澄子は顔を両手で隠して椅子から落ちた。そうして床の上にうっ伏した。