nonohana122
野の花(後篇)
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい
since 2010・8・29
今までの訪問者数 | 984人 |
---|---|
今日の訪問者数 | 1人 |
昨日の訪問者数 | 0人 |
ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
百二十二 「心配が感心になった」
河田夫人はうつ伏せになり顔も上げることが出来なかった。勿論言葉を発することはなお更出来ないのである。母御はこれに構わず、落ち着いた声で、説明するように、
「誰も気の付かないことに、私一人が気が付いたのは、不思議な様ではあるが、ほんの偶然と言うものです。そなたが河田夫人と言って初めて瀬水城に来た時に、私は何の気も無く廊下で会って、どうも見たことのある顔のように思い、すれ違ってから振り向いて見ると、その後姿は一層見覚えのあるような気がした。これがもし顔だけなら、誰に似たとも思い出さずに済んだかも知れないが、後姿で思い出さずには居られない。
アア、どうも死んだ澄子に良く似ていると、思えば思うほどその似たところが多くなり、幾ら他人の空似でも、姿までこう似るとはあんまり不思議だと、果ては怪しいほどに思いました。それから良く考えて居ると昔、澄子の腰元に粂女とか言う者が居て、頭の毛や後姿などが澄子に良く似ていたことを思い出し、
さてはアノ粂女と言う者が、河田何某と言う家に嫁入りでもして、このような身になったのかしらと、こうも疑って見たけれど、粂女は顔がこうまでは澄子に似ていなかった。イヤイヤ、決して粂女では無いと、直ぐにその疑いは解けたが、粂女でなければいよいよ澄子らしく思われると、その後は誰にも言わないけれど、一人でそれとなく気を付けました。」
ここまで言って母御は少し息を継ぎ、
「気を付ければ付けるほど、その疑いが深くなる。もし澄子で無いならば、どうしてこうまで良彦を看病する。その熱心と言い、行き届く親切と言い、幾晩か寝ずに勤めていることなど、その度に冽やまたは女中などの言葉から聞きましたが、
どうしても良彦の母のように思われた。とは言え澄子は確かにイタリアで死んだのだが、或いはアノ死んだ方が粂女では無かっただろうかと、又こうまで思い出し、これを良く考えて見ると、アノ死骸はほとんど見分けが付かないほど顔がつぶれて、その上布でもって初めから終わりまで覆(おお)ってあった。それだから決して粂女では無いとは言えず、又この河田夫人が決して澄子でないとは言えない。
こう気が付いてから私の心配は如何であろう。いよいよこれが澄子なら、澄子の後に直っている品子の身はどうなるか。その現れた時冽がどのように処置するか、また澄子の方が何のためにこの家に入って来たのか、良彦を看病するほかに深い目的が有りはしないだろうかなど、それからそれへと心配が広がって、一つはそのために私は病気になった。
一頃はどうしても河田夫人へ人をやり、何事も無いうちに追い出さなければならないと思ったが、ただの雇い人とは違い、追い出すには冽に承知させなければならず、と言って承知させる工夫は無し、正直に私の疑いを冽の耳に入れたら大変なことになる。
その時の心配は言葉には尽くせません。それに又追い出せば、良彦がどれだけ嘆くかも知れず、嘆けば病気が重くなるに決まっているし、いろいろと考えた末、これはもう、何も気が付かない振りで、澄子を河田夫人のままで看病させて置き、
少しでも良彦が良くなるのを待ち、その上で静かに暇を出す以外は無い、とようやく思い定めましたが、それでもまだ、もしそれまでに澄子と分りはしないかと、そなたの方から冽に打ち明けはしないかと、それはもう一通りの心配ではなく、寿命が縮むように思いました。
それだから、そなたの部屋にこそ行かないけれど、そなたの様子は、勤めて皆の者から聞くようにしていたが、特に冽は毎日二度は必ず私の部屋に来て、その来るたびにきっとそなたの噂をする。
それやこれやで察して見ると、そなたが冽に打ち明ける機会は何度も有ったのに少しも打ち明けないばかりか、勉めて素性を悟られないように非常に苦心している様子も分る。それが分るにつけて自然に又そなたの心中も少しづつ分って来て、果ては心配も感心になりました。
オオ、澄子、そなたのような心の清い女は又とない。良彦の看病が済みさえすれば、何にも言わずに瀬水城を去り、河田夫人のままで生涯を隠し、そして夫の家の平和を保つ積りで有った。私はこれを思うと、昔品子が、出て行けがしにそなたをいじめるのを、私が良く知っていながら、止めもせずに返って加勢するほどにしたのが面目ない。
もう死んだ品子のことをかれこれ言ってはならないけれど、私は品子とそなたのことを思い比べ、品子は自分の娘同様に育てた子だけれど、どうしてもその心がそなたに劣っていたことを見て取らない訳には行かない。
イヤ、品子が劣っているのではない。そなたが千人万人に優れているのだ。余りそなたの心が綺麗だから、あるいは又、実際澄子ではないのかもしれないと、却(かえ)ってこのような疑いも起こり、そのためそなたがここに来た後で、一月も考えて、本当のところを見届けに来ましたが、
来てこの通り一緒に居れば、少しも疑うところは無く、何から何まで昔の澄子で、一々感心することばかりです。私はもう品子が死んだことは悲しくは思いません。そなたのために天が道を開いてくださったようなもの、瀬水城に引き続いて子爵夫人があるのを喜びます。サア、こうなっては何も決まりの悪いことは無い。顔を上げて阿母(おっか)さんと言っておくれ。」
こう言って無理に澄子を引き起こした。澄子は顔に当てた両手を除かず、そのまま今度は母御の膝に顔を埋めた。そして何だか言っているようである。良く聞けば、
「済みません、済みません。」
と繰り返す声が細々と洩れているのである。