nonohana124
野の花(後篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
百二十四 「大団円の中」
本当に澄子だろうか。勿論本当に澄子である。少しも見間違えるところは無い。けれど、或いは澄子の幽霊では無いだろうか。冽の心の中はさながらつむじ風に巻かれるようである。
「澄子が帰っても好いですか。」
との問いに一語の答えを言うことさえ出来ない。
「何とか一言おっしゃってくださいませ。」
と澄子は促した。
その一語が出るような軽い驚き方ではない。全く自分が死骸を引き取って、自分が棺に詰め、自分が葬って自分が墓標を建て、そうして今が今まで自分が弔って居たのだから、それがありありと目の前に現れて、驚かず怪しまずにどうして居られる。
本人か幽霊か、本人であるはずは無く、また幽霊のはずも無い.返事の一言を言うことが出来ないながらも、冽は、驚き怪しみのうちに耐え難いほどの恋しさ懐かしさを催した。幽霊でも本人でも、そんな区別を明確にするには及ばない。
両手を開いて、我が懐に来たれとの意を示した。たとえこの意を示さなくても、澄子の方も最早感情が最高に高ぶって立って居られない。駆け寄って冽の両手の間に身を投げた。
冽はやっと声が出た。
「オオ、澄子か、澄子か。」
澄子の名のほかは言葉が出ない。何度澄子の名を繰り返したか分らない。澄子の方もよよと泣くばかりだ。
ようやく冽は少しばかり気が落ち着き、澄子を引き起こして我が前に立て、再びこの世から消えられてはならないと用心するように、その両手を握り、
「一体全体まあ、どうしたと言うのだ。私には少しも理解が出来ない。」
澄子;「何もかも申しますから、どうか深い私の罪をお許しください。」
幽霊でない全く本人であると、初めて冽の迷信は消えた。けれど、彼は、なおも自分の眼を疑うようで、瞳を定めてじっと澄子の顔を見たが、実に幾ら見ても見飽きると言う時は来ない。ただ髪の毛は昔の半分にも足りないほど短くなっているが、短ければ短いで、又良く似合っている。
顔に昔ほど輝いたところは無く、又子供らしいあどけない所も無くなったけれど、美しさは相変わらず美しい。そして昔に優り非常に静かな非常に落ち着いたところが顔の面に出来て、言わば美しさが大成したのだ。
美人には二十歳以下でその美が大成し、年を取るに従って以外に早く衰えるのもあり、又二十歳やそこいらではただ子供らしく美しく、年を取るに従って段々美しさが深くなって来るのもある。昔から、「美人に年なし」と言うのはこのことで、澄子などはその一人だ。長い苦労と苦しみのためにかえって磨き上げられたのだ。
もっともこうでなくてはならない。プライトンの別荘で冽の母御がいよいよ澄子と見届けて以来は、どうしても冽が帰るまでに昔の美しさに立ち戻らせなくてはならないと言い、嫌がる澄子を無理に捕らえて化粧させ、磨きもさせた。
短く刈った髪の毛も伸ばさせなどして、尽くせるだけの手を尽くしたのだ。実に母御が居なかったならば、澄子はこうも、もとの身にはならないのみか、冽の前に名乗って出る心さえ遂には起こらず、河田夫人のままで本当の死人となるまで、生きながら死人の数に入ってしまうところだった。
冽はつくづくと澄子の顔を見た。ただ美しいだけではない。実に歴史を持った顔になっている。幾年幾月の辛い目にあって苦しんだ事(艱難辛苦)でほとんど神々しいところが出来て、人間の美を超越しているのだ。澄子の年はこの時三十四歳、冽は四十一歳、二人とも老いたりとは言え、まだ人間の盛りである。
盛りもまだ早い盛りである。冽は見れば見るほど愛しさがいや増して、全く昔の楽しい身の上に返ったような心持となった。今も今、青春の又と帰らないのを嘆き、いたずらに悔やんでいたその青春が帰って来たのだ。
「ではあの河田夫人が、矢張りそなたであったのか。エ、そなたが姿を変えて河田夫人になっていたのだろう。そうではないのか。」
これは冽が充分澄子の顔を見てから初めての言葉である。
「ハイ他所ながら良彦の様子を見たいと思い、姿を変えてこの土地に来たのがこのようなことになったのです。どうかご立腹なされないように」
冽;「オオ、立腹、何で立腹などするものか。きっとそなたは辛い目にあって苦しんだ事(艱難辛苦)だろう。この土地に来てから後ばかりでも、一通りのことではない」
と言い、腹の底からホッと深い息を漏らして、更に、
「私はまあ本当に驚いたよ。夢ではないか、発狂したのではないかと自分で自分を疑って、一時は人心地を失うほどだった。夢でも発狂でもなくてまあよかった。それにしてもそなたは、どうして墓の中から、イヤ、そなたではなかったのか。」
澄子;「ハイ、私ではなく、私と思われたアノ死骸は不幸な女、腰元浅原粂女でした。」
冽;「オオ腰元、あの腰元であったのか。可愛そうに、けれど、好いわ、腰元の身分で子爵夫人の葬式を受けたのだから。早速墓碑を取り替えて、後を良く供養してやればーーーア、それもこれも天の配剤だ。」
澄子はここに至ってかえって悄然として、
「イイエ、天の配剤とやらではなく、全く私の過ちです。イイエ、イイエ、私の身にこの上も無い過ちがありますから、何もかもじっくりとお聞きの上で、貴方の裁判を願いたいと思います。貴方に厳重に裁判して戴かなければ私は自分の罪が恐ろしいと思います。家出して今までのことを一々申しますから、どうかご容赦なくお言い渡しください。自分の罪を償うためにはまだこの上にも私はどのような辛い思いでもするつもりですから。」
冽;「イヤ、とにかくも今までの事を聞こう。」
澄子は冽のそばに腰を下ろし、彼に分かれて以来のことを非常に細かに述べ始めた。