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野の花(前篇)

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           十八 「外の願いなら何でも」

 現在、我が産んだ我が子、これに名前を付けるのに、他人の品子が口を出すとは、しかも我が夫が、その他人の言葉に重きを置き、かえって我が願いを退けるとは、これを人情と言われようか。これを黙っていられようか。

 無理な願いならともかく、ただその名前の中に『時』の一字を加えるだけのこと、それを平民の、貴族のとは、どこにそのような差別が有るだろうか。この身を有るか無しに扱うにもほどがあると、澄子は真実に恨めしく思った。冽は笑いに紛らわせて、「勿論、品子の子ではないさ、品子の子ではないけれど、・・・」と言い掛けて、後は言わない。

 「品子さんの子ではないけれど、どうしたとおっしゃるのです。」冽はやむを得ず、「アノ通り品子は真の貴族心意気があって、そうして、この家の為を思って言うのだから。」ますます言うことが澄子の胸にさわる。

 「でも、品子さんの言葉のために、我妻の願いを退けなさるとは。」「コレ、コレ、貴方はまだ、そのように物事を熱心に考えてはいけない。ご覧よ、顔が真っ赤になってきた。血が上ると大変だよ。」

 大変と気遣うほどなら、血が逆上しないようにしてやれば良いのに、「真っ赤にもなります。どうしてもこの願いを叶えて頂かなければと考えていますもの。」「いや、今はまあ、何にも考えない方がよい。全く健康に障るから。いずれにしろ、名前が決まるまでは、赤ん坊と呼んでいれば良いではないか。」

 ほとんど、笑い話のように軽く言って、早や立ち去ろうとする。「後生ですから、どうか、私の言うとおりに、貴方、貴方。」と言う中に、冽は去ってしまった。

 ここまで思い込んだ願いが、聞き入れられないようでは、妻たり、夫たる所はどこにある。それも夫が品子の言葉に、重みを加えての為と思えば、澄子には立つ瀬が無いのが悲しい。

 願いが届かないのは耐えもするが、妻として、妻相応に敬愛されず、夫の目から、他人よりなお軽く見られるかと思うと、全くその身が高いところから、谷の底にでも投げ落とされた様な気がして、深く深く、涙がこみ上げて来る。しばらく顔も上げられず泣いていた。

 冽は間もなく母のそばに行き、相談した。勿論、その席には品子もいる。「ねえ、お母さん、澄子は子供の名前に、是非、時と言う字を加えたいと言いますが、尤も澄子の父が時正と言い、兄が時之介と言いましたので、無理もないとは思いますが。どうでしょう。」

 言いながら少し気兼ねをしたように品子をも顧みた。母が何とも返事せぬ中に、品子は取り決めたような語調で、「それは貴方、先祖から世に名を上げた人がいない家筋なら、あやかる様に他人の名前を、借りると言うことも有るでしょうが、この家などは、先祖の中に、議会で名を上げた人もいますし、戦場で名誉を立てた人もあり、決して他人から名前を借りて家筋を辱めるには及びません。」と代議士もうらやむほどの雄弁をふるって説いた。

 母親も感心の様子で、「そうさ、田舎弁護士の名を借りて、あやかったところで、余り感心は出来ませんねえ。」二人の言葉で、全く澄子の願いは届かないと言うことに決した。しかし、冽はまだ、少し躊躇している。妻がアアまで言った事を、聞き届けないと、言い訳するのも辛いことだ。品子はすばしこい知恵で、その辺を見て取ってか、

 「貴族の長男は父親が名を付けるのに決まっています。家の格式通りにするのに、誰が文句を言いますものか。ねえ、伯母さん。」「そうとも、そうとも、では澄子に子供の名前はもう良彦と決まってしまったと言っておやり。」

 まさか、この日は澄子の部屋には入れなかった。けれど、命名式を挙げると言う準備はした。そして、翌日は、気の毒そうな顔をしてその部屋に入った。澄子は昨日に似ず、色も青く、もう、何事も諦めたと言うように見える。

 けれど、心の底では、あるいは我が願いが、品子の言葉に勝ったかも知れないとの、一筋の望みを残している、冽は極まりが悪く、「イヤ、澄子、貴方には本当に気の毒だが、赤子の名前は良彦と決まってしまった。」

 澄子は驚いたが、その様子は顔に出ず、ただ、物静かに「そうでしょう。品子さんが聞かないでしょう。」「ナニ、品子が聞かないと言うのではない。この家の格式だから、」何とやら、品子を弁護するようにも聞こえる。

 格式と言われては、最早何をか言わんやだ。澄子はどこまでも静かである。心の痛みの深いのも分かる。冽はこの様子を見て、何か落ち着かなかった。「澄子、どうかこればかりは、仕方がないと諦めてくれ。・・・」、「諦めているのです、この通り。」「その代わり、外の願いなら、何でも聞くから。」それならばと外の願いを持ち出すような、不見識は身が腐っても出来ない。

 実に、人の心、イヤ、特に女の心は微妙なものだ。今まで夫に対して、見識の何のと言う、他人らしい気は少しも無かったが、一旦、少しの隔たり出来ると、早や、この様な心が、我知らずに現れ、特に、自分の願いが、品子の勢力のために圧せられたと知ってからは、少しでも、自分の敗北を見せまいとの考えが先に立つ。

 強いて言えば、これも嫉妬の一種である。品子も澄子に対して、烈しい嫉妬を燃やしているのはもちろんだが、澄子も品子に対して、一種の嫉妬を兆した。

 ただ。あちらは他人のくせに、人の妻たる者を嫉む、あるまじき我欲の嫉妬、こちらはは妻として、妻の本能を守ると言う、無くてはならない嫉妬、あちらは鬼の、こちらは仏の、その間に大変な違いはあるが、強いのは同じ事だ。高じては目がくらむようになるのが、嫉妬というものの特性で、この点ばかりは、どっちのにも違いはない。

 冽は機嫌を取るように、「でも、何か外に願いがあるだろう。サア、言っておくれ。」「イイエ、何も外に有りません。」無いのではない。実はこの、子供の命名式に我が父をも招きたいのである。けれど、第一の願いが退けられた後で、何で再び願うものか。心の中は張り裂けるほど辛いが、ただ静かに控えている。




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