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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           十九 「罪深い所業」

 無事に肥立っていた澄子の産後は、このことのためか、がっくり様子が変わった。赤ん坊の命名式は滞りなく行われたけれども、澄子は床を離れることはできなかった。勿論、その式場に出ることはできなかった。

 式の次の日、澄子の病床に品子が訪ねて来た。澄子の胸にはさまざまな不平がある。けれど、そう恨み深い気質ではないから、済んだことは仕方がないと、諦めていて、愛児の名前が良彦となったことも、何時までもくよくよはしない。特に品子に対しては、かえって日ごろより機嫌がよいほどに見える。

 良いのではない。努めているのだ。実にここが女心の不思議なところだろう。今までは、品子に対して少しも自分の様子を作るなどということはなく、自分が機嫌が良ければ良い、悪ければ悪いで、心のままを現していたが、今はいくら辛くても、その辛さを品子に見て取られてはならない、品子の前では飽くまでも自分のうれしい事で満ちているように装っていなければならないと、よしやこれほどまでには思わなくても、このような気分がある。
 けれど、こう装っていられる間はまだめでたい。もし、この装いが、自分の力でできないような時が来たらどうだろう。

 見ると澄子はうれしそうに起き直って、良彦の寝顔を示して、「ご覧ください品子さん、かわいい子ではありませんか。」
 品子は腹の底から悔しさが込みあがる。けれどこれも、少しも悔しくない顔をして、「かわいいのか、憎らしいのか、赤子の顔はみな同じね。」と冷然として言ってのけるのは、ただ遠まわしに、なるだけ澄子の機嫌を損じてやりたいのである。

 「まあ、良くご覧くださいな。」品子はろくに覗きもせずに、「先日、私が主人に似た女中を置くものではないと言いましたが、この子が良くあの女中に似ていますことは、」
 これには黙ってもいられない、「エ、私の子が女中に、でも貴方はご自分で、この家の先祖の良彦という人に似ているとおっしゃったではありませんか。」
 
 これにはぐっと詰まったが、笑いに紛らわせて、「オホホホ、あの真面目におっしゃること、まあ、いずれにしろどうか、この子爵家の息子らしければ良いがと私は思っていますよ。」
 「何も当家の息子らしくないはずはありません。」
 「でも、男親の家筋の気質を受けるのもあり、女親の家の気質を受けるのもありますから。」どこまでも皮肉だか底が知れない。

 「女親の方の気質を受けたとしても、少しも悪いところはありません、私の父は天性の紳士です。」
 「そうですね、娘の目から見れば、どこの親も皆紳士ですよ。」 「イイエ、誰の目から見てもです。親切で、正しくて、皮肉に人の悪口など、言うことは知りません。」と言いかけるのに、品子はこのようなことは言うにも足らずと、あたかも、見捨てるように、

 「イヤ、そうでしょう。そうでしょう。」と言い、更に何気なく、言葉を転じて、「今朝、冽(たけし)さんはこの部屋に見えましたか。」と聞いた。
 見えようと、見えまいと、いらぬお世話だ、澄子は余ほど、言いたく思ったが、思い直して、
 「はい、毎朝参ります。」
 「実は、今日も又何時ものとおり、私と散歩に出る約束ですから、それでお聞き申しましたの。」

 何故に我が夫が品子と散歩に出るのだろう。成るほど、冽自ら、澄子が身重のため多く部屋にこもっている間に、一度か二度か品子と散歩したような話はしたけれど、今品子の口ぶりからでは、毎日一緒に散歩することと、ほとんど決まっているように聞こえる。澄子にとってはあまり面白い事ではない。

 品子は我が言葉がほとんど毒矢のように澄子の胸にこたえたのを見て取って、密かにうれしくてならない。なお、その傷口を針で突くような言葉を吐き、
 「では、きっと、何時ものところで待っていてくださるのですよ。」と独り合点するように言って、そのままソワソワと立ち去った。後に澄子の心の中は、思いやるのさえ気の毒な有様だった。

 神が結んだ夫婦の仲を何人も裂くこと無かれとは、人倫の元を収める古今の格言である。およそ夫婦の仲に水を差すほど、罪深い行いは無い。ところが、品子は確かにこの罪深い行いを企んでいる。まさか、自分から冽と澄子の間を裂きたいと、そう明白には自分の心の中でさえつぶやきはしないが、その行いは全くこれに当たるのだ。

 今まで、すでにその素早い機転で、澄子のなすべき事を総て自分がして、澄子の持つべきこの家の主婦人という実権を、ほとんど握っている上に、この頃の澄子が閉じこもっているのを幸いに、ますます冽に接近して、毎日、冽を散歩などに連れ出すだけでなく、家にいても冽の身の回りの事は、痒いところに手が届くほどに世話をして、全く自分の身を、冽にとって必要欠くべからざる者にしかけている。いや、むしろそうしてしまっている。

 冽はただ幼いときから一緒に育って来た間柄だけに、その仕草を怪しいとは思わない。話をすれば人より面白く話してくれ、手紙は自分に代わって書いてくれる。何か面倒な用事があれば直ぐ引き受けて処理してくれる、この上もない有り難い、秘書を得た様に思っている。

 もし、この秘書がこの家に居無いことになれば、冽は物寂しさを感じはしないだろうか。我が妻澄子が居るだけでは、何となく物足りない気がする様に成りはしないだろうか。早やなっているのではないだろうか。

 兎に角、「澄子が少し品子に似ていれば好いのに」とは、時々冽の心に往来する思いである。


次第20回はここから



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