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野の花(前篇)

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ミスス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

野の花

           二十二 「貴方はどうする」

 しおしおとして澄子は宮廷から引き下がった。自分の謁見が「不出来」であったと思うと、恥ずかしさ、恐れ多さのほかに、又何となく相済まない様な気がして、人に顔を見られるのも辛い。家に着いて一人自分の部屋に入り衣裳を着替えた。いつも忠実な侍女粂女も、様子を見ただけで大体の事情を察し、聞くのも悪いと思ったのか、何も聞かない。ただ黙っていて、遠慮している様子がその顔に現れている。

 着替えが済めば兎に角、夫に一応は挨拶しなければいけないと思い、辛いけれど応接室に行ってみると、冽(たけし)が唯一人いた。母御と品子が同席していないのは有り難かった。「貴方、ただ今帰りました。」
 冽の顔付きは非常に深刻そうだった。

 謁見の様子は早くも誰かから聞いて知っているに決まっている。知っていればこそ、顔が深刻そうなのだ。しかし彼は何も言わなかった。いっそのこと、澄子の気持ちとしては、不出来であった事を叱って貰いたかった。叱られれば、自分の未熟さを詫びる事もできる。うんともすんとも言わない人に、こちらから詫びの切り出しようもなく、同じく澄子も黙ってしまった。

 結婚して以来、この様なことは初めてである。夫婦差し向かって、お互いに一言も言わずにいるなどとは、睦まじい人の間に有るべき事ではない。およそ15分くらい経ったかと思われる頃、冽はつと立ち上がり、
 「今夜はこれから朝倉夫人の夜会に、母上も品子も行くが、貴女はどうする。」
と出し抜けに聞いた。

 「貴女はどうする」
とは何という味のない言葉だろう。
 「是非一緒に行ってくれ」
と普段なら機嫌を取るように言うだろうに、よしんばそれほどでなくても、
 「貴方もお出で」
と命令してくれるなら、辛くても嬉しいのに、ただ
 「どうする」
と聞きっぱなしでは、咲く花をへし折られる様なものだ。

 これではまるで、
 「行けば又夫の顔を汚すに決まっているが、それでも行く気か。」
と詰問されているのと違いはない。その内に廊下に、どやどやと母御と品子が来た。
 「はい、今夜はひどく疲れましたので、私だけはご遠慮を」
 「そうか。」
 この一言で冽は廊下に出た。母御と品子はここに澄子が居るのを振り返りもしないで玄関に出て、冽と一緒に馬車に乗った。邪推を言えば、初めから家へ澄子を残して置いて、3人で行くつもりでいたのではないか。

 後に残った澄子は、黙然と考えていたが、やがて立って庭に出た。部屋の中では唯悲しくなるばかりだから、気を紛らわすつもりだろう。けれど、なかなか気は晴れない。今までは夫の愛に前身を包まれているように感じ、たとえ一人でいようと、物寂しく思った事はないが、今夜は広い世界に唯の一人になったような気がする。

 寂しいとも心細いともほとんどたとえようもない。この様な時に、愛児良彦を抱いたなら、どれほど気が休まるだろう。父がもし来てくれたなら、どのように嬉しいだろう。ああ、父は今どうしているか。家を出る時、もしや、心細い事でも有れば、いつでもこの家に帰って来いと、涙ながらに言ってくれた。

 ああ、親ほど有り難い者はない。その後は、きっと、耐えず私の事を思っているだろう。月は照る、風は冷える、丁度、私が寂しいように、今夜あたりはきっと、父も寂しいことだろうと、しみじみ父が懐かしくなった。

 そして、このような事を思うに連れ、又結婚の前に、冽にこの縁談を断念しろと薦めたことを思い出し、あの時、もしもあの決心を変えなかったら、冽も自分もお互いに幸せであったかも知れないと思った。

 本当にこれから後の自分の身はどのようになって行くだろう。いっそ、今の中にーーーいっそーーーいっそ、いやいや、それもこれも総て自分が至らないからの事、ただ自分で気を引き立て、瀬水子爵夫人と言う身分相応の事が出来るように努める以外はないと、この夜は賢くも思い直したけれど、この後は、物事がますます思うように行かない。

 冽の機嫌も、好いときよりは悪いときが多い。彼の心には日に日に
 「澄子がもっと品子に似ればよい」
との思いが募ってくるように見える。従って、澄子の様子がこれ以上悪くなりようがないとは言え、勿論、好くはならない。そのうちに月日が経ち、いよいよ冽が、今まで諸所から招かれた返礼に、大夜会を催さなければならない時が来た。その催し主は勿論、瀬水子爵夫人である。




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