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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

野の花

           二十六 「ネエ貴方」

 良彦は可愛いい勇ましい顔を上げて、
 「だって、お母さん、昨日僕の遊んでいるところに村の子が来て、僕を打って逃げたんだもの、今日は追いかけて行って敵(かたき)を取ってやったのです。」
 「敵を取るなどと、まあ、そのような恐ろしいことを言うものではありません。人と喧嘩をするなどということは、大人でも良くない事です。」
と言い、更に、聖書にある教訓(おしえ)の意味を分かりやすく説いて聞かせた。

 良彦は納得の出来ない様子で、
 「では、お母さん、人に右の頬を打たれたら、左も打ってくださいと出すのですか。」
 「そこまでしなくても、喧嘩などするような場所には立ち入らないようにするものです。自分から追いかけて行って人を打つなどとは、あきれたものですね。」

 「そんなことを言うと、臆病者と笑われます。大人だって決闘するではありませんか。笑われても好いんですか。」
 澄子自身は女だけの考えしか出すことが出来ないのに、この子が早や、大人のようなことを言うのに澄子はほとんど驚いた。

 この時、冽(たけし)と共に傍に来た品子はいやしむ様な口調で、
 「澄子さん、貴族の子にそのような臆病なことを教えてどうします。」
と言い、更に良彦に向かって、
 「この家には、ねえ良彦、平民の家とは違い、昔から、臆病者の出たことはなく、勇士ばかり生まれるのだから、貴方が始めての臆病者になってはいけませんよ。」

 良彦:「ではやっぱり喧嘩するのですね。」
 品子:「名誉のためには喧嘩もするのです。討ち死にもするのです。」
 良彦は少し気兼ねして澄子の顔を見、
 「そのようなことをしたら、お母さんが泣いてしまいます。」

 品子は更に冽の賛成を得るつもりと見え、彼に向かって
 「ネ、貴方、この子は貴方に良く似て、自然の勇気を備え、教育のしようによっては英雄にもなれる質ですもの。女のように、柔弱に育ててはどうなりますことか。」

 冽(たけし)は別に返事もしない。ただ、澄子の膝から良彦を取りのけて、自分の横に立たせ、そしてその頭をなでている。多分、二人の女の間に判定を下すのが嫌なのだろう。

 澄子:「イイエ、別に柔弱に育てると言うことはありません。なるたけ、善人に育てたいのです。」
と言い訳のように品子に言った。
 「それは、身分によっては善人も良いでしょうが、善人と言えば、俗に意気地なしのことですから。ね、貴方」
と、又も冽(たけし)の顔を見て、

 「貴族には名誉が一番先に立ちますよ。名誉のためには誰にも負けないと言う強い気概を養わなければなりません。え、そうでしょう、名誉を重んじないようなことを教えては。」
と、妙に澄子の教訓をけなして全く名誉を度外視するかのように言いなしたが、冽(たけし)の耳にその言葉が少しも無理と聞こえないのは全く雄弁の効果と見える。

 澄子は品子と争ったことはないが、外のこととは違い、我が子の教育に関することなので、黙っていられない。
 「善人にするのが名誉を軽んじる訳ではありません。善を勧めた方で永く名誉の輝やいている人もあります。」
と暗に教主キリストを指して言った。

 勿論、争うべからざる真理である。善のほかに決して名誉のあるはずはない。けれど、品子は勝たねばおかない。
 「人に打たれて恥とも思わず、それを打ち返す事もできずに、名誉をなんでもないもののように思い、唯無事をのみ願う人間となっては、勇士ばかりを出す、この瀬水家の家名を支えることは出来ません。良彦は全く瀬水家の家名を支えるために生まれて来ているのです。」
と言って争う余地のないように言い切り、更に又冽(たけし)に向かい、

 「ね、貴方、もう良彦を、立派な英国の学校に入れ、男らしく貴族らしい教育を施さなければいけないでしょう。」
ほとんどどちらがこの子の母親か分からないほどの言い様である。

 本来なら冽(たけし)は自分の妻がこの様に言い込められているのを見て、余ほど怒らなければならない。怒らぬまでも妻の肩を持ってやらなければならない。けれども、今は品子の言葉が、誰の言葉よりも多く冽(たけし)を動かす事になっている。

 「そうだね、兎に角英国流の学校にもう入れて好い年齢になった。」
 曖昧に答える中にも品子の方に余計花を持たせて、そして自ら良彦を連れたまま、また門の方に行ってしまった。品子も直ぐにその後を追って立ち去った。

 澄子は情けないような思いがして、良彦の行った方を見送った。「自分の子さえ、自分の思うように出来ず、自分で教育する事も許されない。本当にこの後はどうなってしまうのだろう。」
と心の底から愚痴が出るのも無理はない。



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