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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           二十七 「初めての勝利」

 先年、愛児良彦の名前のため、自分の想いが通らずに品子の意見に従った時は、まだ我慢をすることが出来た。けれど、その子がすでに物心を知る今となり、その子の教育から取り扱いまで、母の意が通らずに、他人の言うことが用いられ、母がその子に意見する傍から、その意見を打ち壊され、そして、その子の目の前で、母の存在を無視するかのように言い直され、しかも、夫たるものが、妻には賛成せずに、かえって他人の言葉を立てようとする。これでは、最早我慢は出来ない。このままでいては、いったいどのように成って行くのか、全く分からない。

 澄子は深く考えて、ほとんどこの後のことが恐ろしくなり、これと言うのも、余りに自分の意気地なさから出た事なので、何とかこれまでのあり方を改め、妻としては妻らしく、母としては母らしく、一家の主婦としては主婦らしく見られるように成らなければならないと、少し奮起するような気持ちが出てきた。

 この気持ちが三年か、四年も前に出てきていたなら、このようなことには成りはしなかったろうにと、愚痴ながら、恨めしい想いがする。

 とは言え、今更どうすれば妻らしく、母らしく、はたまた主婦人らしく見られることになるだろう。もはや、何事も時を失い、思うだけ無駄かもしれないなどと、一人あれこれ悲観しているところに、これも、庭のほうから入って、非常に気安そうに訪ねてきた人がいる。

 それは、この土地で有名な貴族の奥方で、誰からも尊敬されている春海夫人という人である。勿論、澄子は社交を嫌ってこの土地に来たのだが、英国の貴族と言う身分に対して少しも交際しないわけには行かない。特に、この土地の社交は英国の社交よりも万事気安いところがあるので、多少は人の招きにも応じ、旅先ながら、親しい人が何人か出来ている。そのうちで、この夫人は取り分けて尊敬せられ、またとりわけ親しくなっていた。

 この夫人も珍しい美人で、年は少し澄子より上だが、南方暖国の気風として、非常に快活なところがあって、陰気な澄子とはあたかも陰と陽とが良く親しむように、初対面から親しいのである。

 今日訪ねてきたのは、近じか自分の屋敷で大夜会を開き、余興として、来客の素人芝居を催すことになっていることについて、品子と澄子とを是非役者の中に加えたいと言い、冽と品子から既に同意を得ているが、一人澄子が未だ承諾しないので、会ってわざわざ説き勧めるためである。

 夫人は今夜自分の屋敷でその下相談会を開きたいといい、澄子の機嫌を測りながらゆっくりと説明し始めたが、とかく、澄子は内気なことばかり言って、人の楽しむことまでしり込みするのを見て、哀れみを催したと見えて、更に打ち解けた調子で、

 「貴方のように、引っ込み思案になってばかりでは、この後、どのようになるか分かりませんよ。」
と言い出した。日頃ならばこのような言葉を聞きたいとは思わないが、今も今まで一人悲観して物思いに耽(ふけ)っていたところなので、あたかも、相談相手でも得たような想いで、耳を傾ける気になった。

 夫人は力を得て、
 「失礼かもしれませんが、貴方を妹のように思って言うのですよ。私の見受けたところでは、貴方は主婦人なのに、少しも主婦人らしいところがなく、言わば品子さんに位置を奪われているではありませんか。」

 「子爵が物事を相談するには、貴方にせずに、品子さんにするのでしょう。間違いはないでしょうが、私が貴方なら悔しいと思いますわ。貴方が少しも恨みらしい色を見せないのは感心ですが、主婦人が主婦人の位置を他人に奪われては、決して良いことはありません。なぜ、貴方はもっとしっかりなされませんか。」

 澄子は我知らず、
 「どうしっかりしたらよいか分かりませんもの。」
 「なに、訳もないことですよ。何事でも自分がこうしたいと言うことを、そのとおり言い切ればよいのです。貴方がただ、気兼ねして、言いたいことも言わないで、控えているものだから、子爵も自然に品子さんに相談し、品子さんも自然に貴方の言うべきことを自分で言うようになるのです。

 男という者は、はっきりと物を言う者に制せられます。特に貴方は主婦人ですもの、貴方が何事でもこれはこう、あれはあれと、言い切りさえすれば子爵が貴方を立てずにいるものですか。」

 「本当にそのようなものでしょうか。」
 「そうですとも、何も難しいことではありません。自分で一家の主人だと、気兼ねも、遠慮も全く捨て、ただ、はきはきと自分の心に浮かぶままを言えば良いのです。」

 浮かぶままということが、今までは、何より難しいと思ったが、夫人の言葉に動かされたためか、そのような容易な事がなぜ出来ないのかと自分で怪しむ気がして、
 「では、これからは、貴方のおっしゃる通りにして見ましょう。」

 「きっと、そうなさい。主婦人は主婦人らしくしなければなりません」
と先刻自分で思っていたとおりに言われ、
 「はい、これからは主婦人らしく」
 「そして、今夜の相談会にも必ずおいでくださいよ。」

 この日の夕刻となり、冽(たけし)は澄子の前で、品子に向かい、
 「これから、春海夫人の相談会に行くのですが、途中はどうしよう。」
 あたかも、このようなことは品子より外に図るべきでないかのように聞いた。

 「月が冴えていますからアルノ川の堤防を散歩しながら行きましょう。」
 澄子がここだと想い、
 「散歩には遠すぎましょう。馬車に致しましょう。」
 実に澄子は、このようなことさえ、自分の意見を持ち出すことは先例のないことである。

 冽は喜んだような調子で、
 「それでは、途中は馬車と決まった。」
と言い、早や、僕(しもべ)を呼んで馬車の用意を言いつけた。これが澄子の始めての勝利である。

 なるほど、主婦人らしくするのは真に容易なことであると、澄子は心の底で喜んだが、容易な勝利の裏には容易ならない敗北があるとは気が付かなかった。



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