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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

野の花

          三十三  「当人が死ぬ迄は」

 全く人が死ぬのを祈るような言いようだ。
 「当人が死ぬまでは仕方がない」
とはいくら陰口とは言え、あんまりひどい。しかしあるいは当人がここにいることを知っていて、聞かせるつもりで品子は言ったのかもしれない。

 澄子は耳の中にただこの言葉が鳴り響くばかりで、この外のことは心に浮かんで来ない。パーティの終わる迄、どのようにして時間が経ったのかほとんど覚えていない。

 パーティが終わって冽(たけし)と品子と澄子と三人でこの家の玄関から馬車に乗った。冽はただ真面目で口もきかない。品子の顔には、イヤこれも無口ではあるが勝ち誇る色が浮かんでいる。これにつけても澄子は心が沈むばかりで、アア、
 「当人が死ぬまでは、死ぬまでは」

 この時からして冽の澄子に対する素振りは、全く変わってしまってついに元の通りにはならなかった。これまで曲がりなりにも十分夫婦らしいところは存していた。この時から全くのよそよそしい他人扱いになった。イヤ、他人扱いより、なお悪いお客扱いである。敬して遠ざけられるのである。

 妻として夫からお客の様に扱われるとは、これほど気まずいことがあるだろうか。冽はただ尊敬の様子を示すだけで、言葉はかけない。貴方を腫れ物に触るように扱っているぞという心が、言わず語らずの中に見える。澄子はこれでもう自分と冽の結婚が、全く間違いであったと思い込んでしまった。

 到底自分には子爵家の主婦人となることは出来ない。どうにかして人並みにしたいものだと、自分で出来るだけ励んでみたが、その初っぱなに、
 「人前で嫌らしい振る舞いをするな。」
と言い渡され、次には嫉妬のために一家の悪い噂を引き起こすと叱られる。

 何処にこの身の立つ瀬があるだろう。この家を立ち去るのが一方法ではあるが、それも出来ず、成る程、
 「当人が死ぬまでは」
と仕方がないもののように思われるのも無理はないのかも知れない。

 この上に、もし夫が言葉の通り品子を英国に返してしまうことになれば、その後はどうなるだろう。それもこの身を思ってのことならば有り難くもあるだろうが、実はこの身への当て付けとも同じで、サア、品子が居ないからきっと主婦人のことが出来るだろう、それもせよ、これもせよと、まさか口に出しては言わなくても、今のような敬して遠ざける扱いの様子では、そのようにし向けられては、この家に居るにも居られず、破滅だ。

 四、五日が経って、冽は母親に向かって、品子を英国に返すということを言い出した。何しろ難しい問題だから、どのように言い出すか今まで考えていたらしいけれども、悪い噂ということを何より恐れるのが貴族の有り難さで、世間体のためならば生爪も剥(は)がさなければならない。

 実に結構な次第ではないか。それには前後の行きがかりなどもあって、千思万考して見たが、どうしてもグズグズでやめるわけには行かない。いよいよ母に向かって言い出してみると、母親は非常に静かに聞き終わって、余り驚きもしない。

 ほとんど当然と言う面もちで、
 「イエ、澄子が到底貴族の奥方という身分でないことは初めから分かって居ました。実に不幸な結婚で有りました。」
とこれだけが前置きである。今までならば、このような言葉を無言では聞かず、躍起になって弁解するばかりか、頭からこのような言葉を言わさないほどの剣幕で有っただろうに、今は大人しいものだ。一語の異存も現さず、深いため息を発している。

 「そうして品子が万事を引き受けて世話を焼くため、世間では良からぬ噂を立て、貴方と品子の間に訳でも有るように噂するとお言いかえ。いや、それでは仕方が有りません。年寄りが付いていて、そのような悪い噂などが起こったと有っては、私も済まないから、私も品子と一緒に英国に帰りましょう。イイエ、初めからそう思って居ました。アノような身分の者と永く一緒に居ることは出来ないから、どっちかが別居する事になるだろうと。ハイ、品子一人を返せませんから、私が一緒に行きますよ。」

 勿論、母親の言葉には多少の嫌みはある。冽もいくらかこの嫌みが怖かったが、母親も年寄りの常として内心は住み慣れた故郷が恋しいから、嫌みも上皮だけで、余り深い言い方でもない。それに、冽も前からその辺のなだめ方をも考えていたので、あえて驚かない。

 「それにね、お母さん。良彦ももう立派な人の手で教育を施さなければならない年齢になりましたから、英国に送ろうと思います。お母さんがお連れ下さればなおさら幸いです。」

 これではまるで愛児を人質に差し出すようなものだ。母の機嫌はたちまち直った。また直らないでたまるものか。けれど、これをもし澄子に聞かせたらどうだろう。気細い中にもただ良彦が居ればこそ、いくらか心が紛れることもあるのに、これを人質同様に連れて行かれると有っては発狂もしかねまい。

 まもなく母御から、品子にこの家の立ち退きを話した時は実に見ものであった。その美しい立派な、そして貴族的な顔の相好が全く平民的に荒れて、
 「エ、エ、私は幼いときからこの家より他に家はないのですが。この家を立ち去れとおっしゃるのですか、澄子さんのご機嫌のために、私は流罪となるのですね。」

 流罪とはよくも言った。最早勝利は見えたとひそかに微笑んでいたところにこの宣告だから、このような非常な言葉も出るのだろう。けれども母御が慌てて自分も一緒に、かつは人質まで連れてゆくことを話したので、立腹もすぐに消えたばかりでなく、母御が

 「本当にそれ、冽と澄子との間が折り合わないものだから、私もそばで見ていて、毎日その様子を見聞きするのも辛いし、」
と言い出したため、さては二人の中がそれほどの不折り合いになったのかと、永い日ごろの自分の苦心が届いたのを知り、

 「それでは、遠からず再びこの身を英国から呼び寄せる時も来る。」
と心の中でまた微笑んだ。



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