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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳  トシ口語訳

野の花

           四 「爛漫の天真をそのまま」

 子爵瀬水冽(たけし)は、これ程品のあるこれ程美しい女を見たことがない。ただ、一目でほとんど彼の生涯の運命は決まってしまった。澄子は何事とも知らず、少し怪しむ様子で、静かに父のそばに立った。

 その歩く様子にも、自然のしとやかさが備わっている。もし、都会に住む貴婦人に見せたら、全財産を傾けても、このしとやかな身の持ち方を、稽古したいと思うだろうが、稽古やまねでできるような、そんな努力した身振りではない。全く生まれつき自然に備わったものなのだ。

 父陶村時正は震える声をそのままで、
「澄子、この方はインドで家の時之介が付いていた、子爵瀬水冽とおっしゃる方、時之介の臨終の頼みをお伝えくださるため、わざわざお出でくださった。」

 澄子は今が満十七才で、空気の清鮮なこの土地で育っただけ、体は美人として、丁度申し分無い所まで発達はしているが、応対などは少しも人摺れたところはなく、うれしければ笑い、悲しければ泣く、ただ爛漫の天真そのままである。だから、父の言葉を聞くや否や、顔を満面に見て、

 「オオ、貴方が兄の死に際をご存じですか。」
と飾りも臆しもせずに驚いたが、貴婦人の社会ならば、これもはしたないとか、初対面らしくなくて無礼だなどと言うだろうが、にせの笑顔やにせの礼儀などを見飽きている冽にとって、これも感心の一箇条となった。
 こう真心がそのまま言語動作に現れるようでなくては、心を許して交わる事さえできない。

 「はい、息を引き取る時は枕辺に立っていました。彼は私のこの手を握って勇士の最期を遂げたのです。」
 澄子はたちまちうつむいた。我が兄の死に際に握った手と聞き、思わず知らずその甲に唇を当てようとしたのだ。

 けれどさすがに女、また、たちまち気がついて、俯きかけた顔を上げて、
 「兄はその時何と言いました。」
 「はい、時之介は軍人らしく死んだから父と妹に泣くなと伝えてくださいと言いました。」

 父はこらえかねて泣き声を発し、
 「オオ、軍人らしく死んだと、言いましたか、嘆きません、これ、澄子、泣くのじゃない、子爵、子爵、この陶村時正の子には、未練らしい者は生まれません。彼は天然の男子でした。」
と言い、ハンカチを鼻に当てた。

 澄子は泣きはせぬ。ただ顔を青くして冽の顔を、いや、むしろ顔の辺の空を眺めている。唇を堅く閉じて一言も言わない。泣くよりもっと辛いとはこのような様子のことだろう。冽は少し経った後、金製の二個の小箱を取りだし、テーブルの上に置いた。

 「この中には時之介の遺髪が一房ずつ入っています。直ぐにその場で切り取ったのです。このような箱まで作ったのは余りに独断過ぎると思われるかも知れませんが、実は彼を私の弟のように親しく思っていましたので。」
と言い、更に澄子に向かい、

 「特に貴方にこのような箱を上げては初対面として、無礼に当たるかも知れませんが、時之介の話で、まだ貴方をほんの小娘と思い、これ程の年頃だとは思いませんでした。」

 父は顔をうつむけている。澄子は取り上げて、
 「イイエ、貴方のご親切は私の年にはかかわりません。」
と言い、真に有り難く感じた様子で、その箱を開いた。中には髪の一房が今切り取ったばかりと見まがうほどつやつやしく、輪になっている。

 今まで泣かなかった澄子も之を見ては、断腸の思いと見える。尤も、しばらくその遺髪を唇に当ててはいたが、やがて腸の底から搾り出す泣き声で「オオ兄さん」と言ったまま絶え入るように泣き、もはや耐えられなくて、その場を立ち去ってしまった。

 冽(たけし)にとっては、澄子が立ち去ると共に、部屋の中が暗くなったような気がした。父はようやく心を静め、娘が立ち去ったのを謝るように、
 「どうも、体ばかり大きくても、まだ子供で、仕方がありません。他人様の前で泣いたり、笑ったりするのではないと、よく言い付けてはいるのですが。」
と言った。

 冽は今に再び出てくるだろうと心待ちに澄子を待ったが、出ては来なかった。残念な事と言ったら喩えるものもない。父は初めてあの小箱を取り上げ、

 「いや、貴方様の行き届いたご親切はこの父の肝に銘じました。なお、時之介の死ぬる前の事なども細々と伺いたいと思いましたが、少し心を落ち着けなければ、今日は余りに不意の事ですから伺うに耐え難く思います。」

 冽も実は又来るだけの手がかりを残しておきたいのである。彼はこの機を逃さず「はい、私も実は宇治部の町に、期限を決めて宿を取っていますから、また、ゆるゆると伺いましょう。」
 「娘もとくとお礼を申したいのでしょうけれど、ご覧の通りの次第ですので、改めて私が引き連れてお宿まで参りましょう。」

 「イエ、イエ、丁度散歩に良い距離ですから、何度でも、参ります。」
と、今の流行の言葉で言えば、根拠地だけ開拓して置いて、冽は帰ってきた。 帰る道々では、来るときの景色は目に留まらず、見る物ことごとく澄子の美しい姿に見えた。



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