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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           五 「自分を知る知恵」

 これからして冽(たけし)は何度と無く澄子の父の元を訪ねた。訪ねるたびに又次に来るだけの口実を作って帰った。勿論、時之介がインドにいる間の様々なことを、話して聞かすので、何度行っても話の種は尽きない。何度話しても、父や娘は喜んで聞きたがる。

 後ではほとんどこの家にいるのが我が家にいるように気安くなり、父が居ようが居まいが、かまわずにその部屋に通り、澄子と話しもすれば時には連れだって谷川の辺を散歩するようになった。このようにする間に澄子の胸にも、冽に対する深い深い愛情が動き始めた。

 どうして愛情を動かさずにおられようか。世間と余り交流のない仙境のような所の生まれ、若い男と言えば、自分の兄より外に知らないほどに育った者が、その兄を失って深く悲しんでいる所に、兄の代わりとも言うような若い立派な男が来て、そうしてその男たるや親切で、穏やかで、実に立派な容貌で、話す話は面白く、振る舞いは優雅で、その上に名誉も爵位もあり、これと言って非難するところもない。

 何時とも無しに、澄子はこの人を天地の間に唯一人の男と思い詰め、その帰るのを辛く思い、その来るのを待ち遠しく思う様になった。しかも自分では之を男女の愛とは思わず、ただ兄を愛した通りに愛する事のように思い、隠し立てのない気質として冽にその心を語りもした。

 「貴方がこの土地をお去りなされば、後で私はどれほどか寂しく思いましょう。貴方が行った方の空を眺めてばかりいるだろうと思います。」などと、その言葉は何度と無く澄子の口から漏れた。

 初めてその言葉を聞いたときは、返事さえできないほど喜び、何日もの間、耳の底にその声が溜まっていて、あたかも、守銭奴が金庫から金をを取り出しては、自分で賞美するように、その言葉を耳の底から我が心に引きだしてきては、一人で味わってきたが、一番最後にその言葉を聞いたときには、思い切って「では、生涯別れるに及ばないようにして上げましょう。」と言った。

 けれど、澄子はどうしてそのような都合の良いことができるかを知らず、「もし、そうできればうれしいですけれど、何時までもここを立ち去らずにいることは、できないことですよね。」と怪しむような顔で答えた。

 決して、冽は浮いた心ではない。この女を我が妻に貰い受けるまでは、この土地を立ち去らない決意だ。社交のなんたるかを知らないこの辺鄙な所に育った女が、果たして社交界の中心たる子爵夫人となって、夫人の地位を支えきれるかいなか。生涯幸福に送れるか否か、などと言うことは少しも考えない。

 ただ、澄子の心映えが正しいのと、父の厳重なしつけと教育とを受けていると言うことだけを頼りとして、この女ならば子爵夫人はおろか女王にもなれると確信している。実は女王にも、昔からこの女ほどしとやかに、清浄に生まれついていた方は無いであろうと、このように思い詰め、ついに、澄子に我が妻になれとのことを申し込んだ。

 澄子は実に驚いた。うれしくは思ったが驚いた。人の妻になるなどと言うことは、自分でも考えたこともなく、なおさら貴族の妻などとは、夢にも見たことがない。
 「私で出来るなら、なりますが、明日まで考えさせてください。」
との返事であった。

 勿論、冽の言葉を軽く聞いた訳ではないので、全くまじめに考えた。熱心に考えた。そして、ついに決めた決心は、到底子爵の妻になる身分ではないと言うことだった。このためには泣きもした。身分の低いのを恨みもした。

 このまま冽と別れる辛さなど考えて、身を裂くほどに辛く思ったが、今は仕方がない。明白に断って彼を立ち去らせなければならない。長くいるだけ互いに辛さが増すばかりだと、感心にも目が覚めたように決断した。

 当日、冽はこの返事に聞いて、一度は身も世も無いほどに絶望した。澄子はその様子を見て、人にこれほど絶望する事が有るものだろうかと、ほとんど恐ろしく思い、さては私の決心が、これほど冷酷であったのかと、いささか悔やむような思いを起こし、
 「どうか、瀬水さん、勘弁してください。貴方にこれ程辛かろうとは思いませんでした。そして、私も一夜を泣き明かしました。」と言った。

 しかし、冽は思い止む心は少しもない。なぜ断るのかと深く問いただした。澄子は我が思うままを話した。その主なことは、身分が違うこと、自分が人と交際する事さえ知らないこと、広大な家、広大な財産の女主人となる性質でない事、必ず何事にも間違いが多く、人の物笑いとなってしまうこと、等であった。

 後々の事から考えると、澄子のこの言葉には兎に角、良く自分を知るだけの知恵が、あったと言わなければならない。



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