巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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野の花

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

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六十五 「今の夫人は品子の方(かた)です」

 ベールの下から現れた顔は、全く天使の顔である。よく仏教の絵などにある、菩薩顔と言っても、これ程の慈悲は帯びていない。
 顔と心とはややもすれば、相違すると言うけれど、それは困難、苦しみに耐えて磨き上げた人の顔では無いからだ。真に困難、苦しみの中に、或熱中を以て身を置けば、顔の面に必ずその普段の様子が現れる。

 たとえば、非常な大事業を成し遂げた人には、顔に満足の笑みが光っている。千軍万馬の間に長く号令を司っていた人には必ずそれだけの威厳がある。熱心に慈善の業に身を委ねていた人に、顔に慈悲の心が刻まれていないのは無い。

 是に反して、博打などを長く打った人には、目にも口にも、全体の顔つきにも、すごい鋭いところが現れている。初めから、そうでなくても自然にそうなってくるのだ。もの慣れない人には、是を見破ることが出来なくても、深く人情と世間の辛酸を嘗めた人には、大抵顔を見ただけで、見当がつくのだ。

 今のこの河田夫人というのは、生まれ付きの顔が、きっと慈悲の相であったのだろうが、尚その上に長い慈善事業の苦労が刻されており、誰でも一目見ては、親しまずには居られない程だ。

 若い頃はどれほどか美人であったろう。今は困難、苦労に非常にやつれ、口の辺にも、目の周りにも、ほとんど萎(しな)びたような所が見えるが、その萎(しな)びたように見えるだけ、かえって見る人の尊敬の念が深くなる。

 それに又、顔の色の白いことは、全く水磨きに掛けた大理石のようで、ほとんど人間の血の気が有るとは思えない。これは、きっと身体の栄養よりも、心の苦労が度に過ぎた結果で、いくらか、健康まで損なっているのではないだろうか。この様子を見るにつけても、評議員夫人らの同情が一層深く成るばかりだ。

 普通、アーリアン人種(即ち西洋人)の特徴として、この様に色の白い人は、多くは髪の毛から、眉毛などが黄色く、黄金の色艶を帯びていて、是が美人の真相だなどともてはやされたものだが、この夫人は眉が黒い。全体の顔の色と照らし合って、妙に趣を添えている。

 髪の毛はどうだろう。是は短く刈っていて、そして未亡人のベールに覆われているから、詳しくは見ることは出来ないが、ベールの端からはみ出している所を見れば、やはり黒いのである。多分はスペイン人の血を引いて居るのだろうと、この様に考える人もいた。

 そのうちに夫人は書き物を終え、その紙を春田博士の前に出した。今時余り見ることが出来ない昔流の書風で、実に行儀正しい。是でこの夫人がどれほど真面目な家庭に育った者かということもわかる。

 特に博士自身が、昔流の行儀正しい書体を賛美する人であるから、今までの満足になお一層を加えるだけの余地はないとは言え、やっとその余地を探し出して、加えたとも言うべき様である。

 見終わって博士はその紙を評議員夫人の方へ回した。夫人の一人、二人は何事をかささやいたが、感嘆のささやき声らしい。その他の夫人は、余り試験がましく見るのは、失礼だという様に、深くは見ない。即ち見ずに信用するという大信任を現して居るのだ。

 博士は恭(うやうや)しいほどの語調で、河田夫人に向かい、
 「イヤ、何もかも我々が予期していた以上に満足に感じます。ついては、正式に契約を結びたいと思いますが、その前に、万一の誤解を後日に防ぐため、この学校の性質などを一応申し述べて置きましょう。」
と言って、簡単に生徒の数や、授業時間や、また、事務長としてこの夫人の引き受けるべき仕事などを、説き明かしたあと、

 「そして、この学校は女子部男子部を合わせ、総体に私が監督しているのはご覧の通りですが、私の上にまだ一人の監督者が有ります。
 その方は慈善事業に名をひけらかすのは、好まないと言う、結構な心構えで、世間には吹聴はしませんけれど、この学校の職員たる者が、この学校を建て、一切の資金を支出している校主が、誰であるかと言うことを、知らずにはおれませんから、ここで申し上げて置きますが、この辺幾十キロ四方を領地とする瀬水子爵夫人です。」

 瀬水夫人と言う名は、この河田夫人にはどの様に聞こえたか、この婦人は真っ白い顔をたちまち青くした。そして「おや」と驚き叫ばんばかりに口を開いた。しかし、余りの驚きに声さえ出ないのか、はたまた、必死の思いで、自分で声を出さなかったのか、実際に叫びはしなかった。

 博士はこの様子を見て、
 「オヤ、貴方はどうかされましたか。」
 河田夫人は急に返事も出ない。ヤヤしばらくして、ほとんど、喉を出ないような声で、
 「私は理解が出来ません。」
とやっと言った。
 博士;「エ、理解が出来ないとは、何事が、」
 夫人;「アノ瀬水子爵夫人は、とっくに亡くなられた様に聞きましたが。」

 博士;「アアそのことですか、ごもっともです。いかにも、数年前、イタリアで亡くなられ、私共を初め、いずれも哀悼の意を表しましたが、それは瀬水子爵夫人澄子の方(かた)言われた方で、今の子爵夫人は品子の方(かた)です。二度目のお連れ添いです。」

 品子の方と言う名前はまたも、この夫人を驚かせたらしい。


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